「うん、ゆんべここで撃ったシカを追っていったらよ、おっきな熊がシカの腹破って百尋(内臓)喰らっていたんだ。あいにく手負いにしてしまったでよ、これから追ってみるけど、あの上にあるナラの根っ株のところにシカが倒れていっから、二、三人で行って、おらのとこまで運んできてけろや。晩にはシカの肉で一杯やるべしよ」

「うん、わかった。すぐ運んでバラしておくから、気をつけてや。熊も運びに行ってやるべよ。大体、どのあたりだべか」

「そうだな、あのへんだと、大方シュムロ沢のカッチ(沢の詰め)だべよ。まああとから来てみてくれや」

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「うん、シカを始末したら行ってみっから、気をつけて行ってや」

 山本さんの声を背に受けて、老人は、畑の上縁(うわへり)から背丈の低い笹藪の中に足を踏み入れ、カシワの樹林へ向かってゆっくりと歩を進めていった。

写真はイメージ ©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

“熊は近くにいる”後頭部に烈しい一撃が

 先刻の現場を通るとき、老人はチラッとナラの根株に目をやった。シカはそのまま横たわっていた。それを横目で見つつ、そこから真っすぐに熊の跡を追い始めた。やがてカシワの樹林は尽きて、雑木の繁茂する原生林が続いていた。点々と続く血痕を辿るうち、小笹がまばらに生えているところに出た。そこで一度立ち止まった老人は、足元を見おろした。血の跡は、真っすぐ小笹の中へと続いている。周囲(あたり)を入念に見回した老人は、なんの躊躇もなくその小笹の繁みに踏み込んでいった。すでに実弾を装塡した銃が、老人の左手に提げられていた。

 笹の葉や地面に付着した血痕は、跡切れ跡切れながらもなお先へ続いている。少し先に小さな窪みがあり、そこにベットリと血の塊りが付いていた。熊が坐り込んだ跡だ。

 “近いな”。老人は足を停め、顔を上げて様子を窺った。注意深く見回す老人の目には、何ひとつ動くものの影は映らなかった。透かし見る雑木林の樹間には、なにも変わったところはなく、たまさかに小鳥の囀りさえ聞こえるほど、静けさが辺りを包んでいた。だが、老人の頭の中から、“熊は近くにいる”との直感は去らなかった。全身を耳にし、目にもして、老人はその場に立ちつくしていた。

 いくばくかの時が流れ、再び老人は歩き始めた、ひと足ひと足ごとに足元に目をやりながら。“熊はもう少し先だ”と、周囲の状況から老人は判断したのだ。歩き始めて五メートルあまり、右手にナラの大木が立っていて、その根元で血痕が消えた。

 老人はナラの根元を回ってみた。ほんの二メートルほど離れたところに、もう一本、ナラの大木が立っており、その二本の木の真ん中あたりに、やや多目の血痕があった。まだ新しいものと思われるその血痕に、老人の目がひきつけられた。