「打たれた投手に拍手」する観客への違和感
緩いのは年俸だけではない。各球団とも、チームが負けても観客が楽しめるようにと趣向を凝らしている。確かに平均して半分は勝って半分は負けるのが野球だから、そういう方向性は理解できる。私も食べることは大好きだから、スタジアムグルメの充実などは大賛成だ。ただ、やっぱり大事なのは真剣勝負の迫力を見てもらうことだから、緊張感、緊迫感といったものがまったくなくなってほしくはない。
最近では、打たれたピッチャーが降板してベンチへ戻って来るときに、スタンドのファンが拍手で迎えたりする。驚きを通り越して理解不能だ。昔、同じ状況だったら容赦なく罵声が浴びせられた。最大限優しい反応でも、厳しい叱咤激励だった。でも、その罵声を浴びることで自分が置かれた現実に向き合い、その悔しさをバネに頑張れたものだ。
いつかこいつらに拍手させてやる。そう思ったものだ。それが……。こんな緩さでいいのだろうか――。またしてもそう思うのだが、球団関係者にとっては、これこそが明るい野球場、みんなが安心して観戦できる野球場ということなのだろう。いつの間にか、野球場(スタジアム)ではなく「イベント会場」になってしまった。
私は、この体裁だけきれいに整えてしまうことや、本質を隠して美談にしてしまうことに不気味さを感じる。だってそうだろう。ひいきチームが打たれて負けて、嬉しいファンなどいない。
その裏で、SNSの罵詈雑言も増えている
「しっかりやれ!」「気合入れていかんかい!」「何やっとんじゃ!」
言いたくなるのが当たり前だし、言ったほうがいいのだ。本心を出さずに、きれいごとでまとめてしまうと、いずれ鬱積したエネルギーが噴き出して、よくないことをしでかす。「表でニコニコ、裏でイライラ」という感情の二重構造は現代社会の特徴的な病理だといつも感じている。
球場では周囲のファンと一緒にパチパチと激励の拍手を送りながら、誰も見ていない帰りの電車の中で、「二軍レベル、戦力外でもいい。二度と投げさせるな」とSNSに書き込んでいたりするのだから。これもまた日本人がどこかで間違えてしまったことのように思えて仕方ない。
1990年代半ばに、順位をつけない運動会というのが話題になった。お手々つないで横並びになってゴールする……そんな話題だった。はたしてその後、日本の運動会がどうなったのかについては詳しくないが、順位をつけない運動会はあちこちに存在しているようだ。 それに限った話ではなく、現実の厳しさから目をそらして、美談でまとめようとする風潮は広がりを見せている。
