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【大輪寺】信繁(幸村)の母が眠る場所

信繁(幸村)の母、寒松院(山之手殿)が眠る墓

 第2次上田合戦で徳川軍を退けた昌幸・信繁(幸村)だったが、西軍(石田三成)に味方したため、関ヶ原の戦い以降は高野山の麓、九度山(和歌山県)への蟄居を命じられる。信繁(幸村)は大坂冬の陣に参戦するため脱出し、活躍するが、昌幸はそのまま九度山で病死。享年65であったとされる。

 その昌幸の妻で信繁(幸村)の母である山之手殿は昌幸が九度山へ蟄居させられた後、髪を下ろし出家した。昌幸が病死した2年後、死去。以後、寒松院と呼ばれている。山之手殿(寒松院)が死去したのは夫である昌幸の死のちょうど2年後の三回忌の日であることから、昌幸の後を追っての自死だと考えられている。

 その山之手殿(寒松院)の墓があるのが大輪寺だ。元々は砥石城の麓、畑山に建っていたが兵火で焼失、その後、慶長年間(1596~1614)、昌幸が現在地に本堂を再建、夫人の山之手殿(寒松院)が開基となったと伝えられる。そのため、境内墓地に山之手殿(寒松院)の墓がある。

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 山之手殿(寒松院)の出自には諸説あるが、京の公家の娘で武田信玄の養女となり、その後昌幸に嫁いだと高野山蓮華定院過去帳に記されている。このため、生前は山之手殿のほかに「京の御前様」と呼ばれていた。武田氏滅亡の直前は人質として甲斐の新府城で暮らしていたが、織田軍の攻撃の前に脱出に成功。関ヶ原合戦の際も石田三成の人質として大坂城にいたが、脱出して上田城へ戻ったという、なかなかしたたかな御仁であったようだ。

大輪寺の荘厳な門構え
本堂
本堂の裏手、案内看板に沿っていくと寒松院の墓にたどり着く
寒松院の墓碑
上田城再建の責任者、普請奉行の原五郎右衛門の墓

 ちなみに寒松院の墓の近く、滅多に人が立ち入らない草むらの中に、上田城再建の責任者、普請奉行の原五郎右衛門の墓がある。原五郎右衛門は仙石忠政に上田城再建の全権を委任され、堀の掘り方や櫓等の建物の建て方、道具・人足の手配まですべての指揮を執った。彼なくして今の上田城はない。このような決して歴史の表舞台には出てこないが、実際に額に汗して手足を動かした人たちがいるからこそ我々は数百年経った今でも歴史探訪の旅を楽しめるのだ。

大輪寺
所在地:長野県上田市中央北1-5-7

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