真田信幸(信之)の妻、小松姫は天正元年(1573)、家康が最も信頼していた重臣、徳川四天王の一人に数えられる本田忠勝の娘として生まれた。本名は諸説あるがその一つが「お稲(いね)」。午年生まれだったので両親は「うま」と名付けようとしたが、女の子であるのに馬はいかがなものかと猪の「いの」と名付けた。馬よりも猪の方がないと思うが、それはさておき、「おいの」さんと呼ばれ続けていくうちに「おいね」さんとなった、という説である。
天正17年(1589)17歳のときに家康の養女になり、信幸(信之)に嫁いだ。なぜ徳川のような日本屈指の有力大名が、豊臣麾下とはいえ信濃の一小大名の真田と縁組みしたのか。その理由は、まず、第一次上田合戦で徳川の大軍を見事な軍略で撃退した真田家を徳川方に取り込んでおきたいと思ったこと、当時弱冠20歳の信幸(信之)自身もこの合戦で大活躍したことなどが挙げられる。
当時、信幸(信之)には正室がいたが小松姫と結婚した後、側室になったという説もある。そうまでして小松姫を正室としたのは真田家としても徳川家との縁組に大きなメリットを感じていた証だろう。
小松姫には逸話・伝説も多いが、そのほとんどは後に創作されたもの。例えば、第8回信濃国分寺で少し触れたが、犬伏の別れで昌幸・信繁(幸村)が上田城に帰還する途中で沼田城に立ち寄ったときの逸話。昌幸が孫の顔を見たいと開門を乞うたとき、小松姫は甲冑に身を包み薙刀を構えつつ「敵味方と別れた今となってはいかに舅とはいえ門を開けることはできない。そんなことをしたら夫・信幸(信之)に顔向けできない。どうしてもというなら討ち死に覚悟で戦うまで」と一歩も引かなかった──というものだが、このとき小松姫は豊臣政権下の人質として大坂に住まわされていたはずなのでこの話はありえない。小松姫は武芸にも秀でる女丈夫で、家康・秀忠にもはっきりとものを言うほどの勝気な女性であったと伝えられていることからこのような話が創られたと考えられる。
その反面、深い愛情をもち、細やかな気配りができる女性でもあったようだ。本来、義父・昌幸、義弟・信繁(幸村)は慶長5年(1600)年、石田三成が挙兵した際、石田側についたかどで関ヶ原の合戦後、死罪に処せられるはずだったが九度山への流罪で済んだ。そうなったのは小松姫の実父・本多忠勝や信幸(信之)の家康への命懸けの嘆願の賜物だが、その時、小松姫も一緒に助命嘆願に尽力している。また、真田親子が九度山に配流になった後も彼らの身を気遣い、お金や鮭、焼酎などの信濃の名産品を送っている。このとき、実際に九度山まで届けていたのが第3回長谷寺で紹介した部下の池田長門守である。
その後は息子、信幸(信之)とともに破壊された上田城跡に建てた居館で暮らしていたが、病にかかってしまう。そして元和6年(1620)春、病気療養のため江戸から草津温泉へ向かう途中、武蔵国鴻巣の勝願寺において力尽き、48歳でこの世を去った。小松姫の死に、信幸(信之)は「ああ、我家のともしび消えたり」と嘆いたと伝えられている。
小松姫は勝願寺で密葬された後、上田に運ばれ荼毘に伏された。遺骨は芳泉寺と勝願寺と真田氏ゆかりの正覺寺(群馬県沼田市)の3つの寺に分骨され、さらに信幸(信之)は小松姫の一周忌に芳泉寺に宝篋印塔と御霊屋を建てた。その御霊屋は信幸(信之)が元和8年(1622)、松代へ移封されたときに建立した大英寺へ移された。移封先でも一緒にいたいとは、よほど信幸(信之)は小松姫を愛していたのだろう。芳泉寺本堂南の弁天池には御霊屋の名残りがある。