【信濃国分寺】第二次上田合戦時、敵味方に別れた親子が会見した場所
真田一族の物語が数百年の長きに渡って民衆に愛さ続けてきた理由の1つに、血を分けた親子兄弟が敵味方に別れて戦わざるをえなくなってしまった悲劇が挙げられるだろう。もちろん骨肉の争いは戦国時代ではよくあることだったし、現代でも珍しくはないが、真田家の場合は己の理想や誇り、そして昌幸の真田の血を後世に残すためというしたたかな戦略があったことが人々の心を打つのだろう。
豊臣秀吉がこの世を去った後、徳川家康は有力大名を滅ぼして天下を獲らんと企んだ。秀吉病没後の2年後の春、慶長5年(1600)、五大老の一人である上杉景勝が謀反を企てているとして会津に向けて出兵。徳川から真田家にも出陣命令が下り、沼田城から信幸(信之)が、上田城から昌幸と信繁(幸村)が兵を率いて会津に向かった。
その途中、石田三成が家康に反旗を翻し、大坂で挙兵。昌幸・信繁(幸村)が上杉討伐の途中で宿泊していた下野の犬伏宿(現栃木県佐野市)の大庵寺に、三成から打倒徳川の密書が届く。これを受けて、昌幸、信幸(信之)、信繁(幸村)親子は犬伏の米山薬師堂に集まり話し合う。その結果、昌幸と信繁(幸村)は石田方に味方し、信幸(信之)はそのまま徳川方に残ることを決め、親子3人が敵味方に別れて戦うこととなった。世に言う「犬伏の別れ」である。三者三様の思いや意地、野望がぶつかるこのシーンは『真田三代』(火坂雅志 著)でも思わず胸が熱くなるほどドラマチックに描かれているし、NHK大河ドラマ「真田丸」でも大きな見どころの一つになるだろう。
昌幸と信繁(幸村)は戦いに備え急遽上田城に引き返す。その途中で信幸(信之)の城、沼田城に立ち寄るが、城を預かっていた信幸(信之)の妻・小松姫が武装して城門を開けなかったという「伝説」が残っている。
信幸(信之)は徳川秀忠軍と合流。8月24日、石田三成の挙兵を知った徳川家康は上杉討伐を取りやめ、石田討伐のためいったん江戸城へ。徳川軍の本隊を率いた秀忠は徳川に反旗を翻した昌幸と信繁(幸村)を討つべく、宇都宮からそのまま上田城へ向かった。
9月2日、小諸城に到着した秀忠は9月3日、昌幸に使者を送り、降伏して上田城を明け渡すよう勧告した。すると昌幸はあっさり「戦うのは本意ではない、降伏する条件を直接会って交渉したいから、しかるべき武将を寄越してもらいたい」と返信。もちろん昌幸に降伏する気などさらさらない。
秀忠は会見の相手として昌幸の息子の真田信幸(信之)と、信幸(信之)の妻の弟である本多忠政を遣わした。その両者の会見の場となったのが信濃国分寺である。交渉のテーブルについた昌幸は、兵たちの命の保証と本領安堵を約束してくれるなら上田城を明け渡すと提示。これを聞いた秀忠は城が手に入るならと了承。
しかしここからが昌幸の本領発揮である。9月4日、昌幸は態度を翻し、秀忠がいくら催促してももっともらしい理由をつけて一向に城を明け渡す素振りを見せない。その間、上田城の防備を固め、籠城の準備をしていたのである。
9月5日、昌幸の策略にまんまと乗せられていたことに、ようやく気づいた秀忠は上田城に接近し、信幸(信之)は砥石城を攻め、接収する。9月6日、秀忠軍は、昌幸・信繁(幸村)の籠る上田城を総勢3万8000の軍勢を率いて攻撃。対する上田城の真田兵は2500。まともに戦っても勝ち目はないのは誰の目にも明らかだった。しかし、またしても昌幸・信繁(幸村)の策略により徳川軍は翻弄され撃退された。一方、上田城は無傷。そして9月10日、秀忠は家康の命により上田城の攻略を諦め、兵を率いて関ヶ原へと向かった。しかし、時すでに遅し。関ヶ原へ向かう途中、秀忠の元に東軍勝利の知らせが届いた。
しかしこの話には異説がある。まず、真田・徳川の会見が行われたのは上田城で、国分寺では使者の饗応が行われたという説。また、秀忠が独断で上田城を攻めたように伝わっているが、そもそも家康から秀忠軍に与えられた命令は中山道の制圧だったので、上田城攻めもその命令に沿ったものであるということ。3つ目は、家康はもっと早くに秀忠に上田城から離れ、関ヶ原へ向かう指示を出していたが、その書状を運ぶ使者が利根川の増水によって到着が遅れ、そのせいで関ヶ原の戦いに間に合わなかったというものだ。
信濃国分寺
所在地:長野県上田市国分1049