今から80年前の第二次世界大戦末期、県民の4人に1人が命を落としたの「沖縄戦」――。そこでは、兵士だけでなく「ひめゆり学徒」として多くの沖縄の女子学生たちも動員された。彼女たちはまだ10代の若さで、戦争の中で何を見たのか?
テレビディレクターの渡辺考氏がひめゆり学徒の一人、山内祐子(やまうち・さちこ)さんにインタビューした新刊『ひめゆり学徒だった山内祐子さんが沖縄の高校生に伝えたこと』(講談社)より、彼女たちが命がけで過ごした日々をお届けする。(全3回の1回目/続きを読む)
◆◆◆
命がけで食料を運んだ
山内さんは、陸軍病院壕の様子を三枚描いています。最初の一枚が、食事を運ぶ作業「飯上げ」の絵でした。
「看護婦の一番大きな仕事は飯上げ。晩になると、自分の腰ぐらいの高さの大きな木のたるを持っていくわけですね」
まさに命がけの仕事でした。病院の炊事場は、三百メートルほど離れたところにあったため、丘を越えないといけなかったのです。泥の坂道を敵の弾丸をくぐりながら、友人と二人がかりで百人分の食事が入ったたるを運びました。雨の日は、特にたいへんでした。沖縄の雨は激しく、ぐちゃぐちゃになった泥道をのぼりおりしました。ドカンドカンと音をたてながら、弾が近くに落ちることもありました。それでも、飯上げをやめるわけにはいきませんでした。転んだり、バランスをくずしたりすることは許されませんでした。
「こぼしたら兵隊たちの食事はなくなるので、自分の命より大事にして、飯を運びましたね」
生徒たちの食事は、患者たちと同じものでした。最初は、朝と夕方にテニスボールくらいの大きさのおにぎりでした。しかし、だんだんと食料が不足していき、おにぎりの数も大きさも減ってしまいました。
「一日一食ですよね。おにぎりもピンポン玉の大きさになりました。ケガ人や病人が、おなかすいたよ、ひもじいよ、と言ってもね、もう聞かないふりをしました。いちいち聞いていたらね、キリもないし、そもそもあげることもできないんです」
山内さんは、食料が足りないと怒った負傷兵から「もっと食べ物をくれ」と言われ、銃を向けられておどされたこともあったそうです。
水も湯飲みに一杯だけ。水の入ったたるを弾をよけながら運んでくるのも生徒たちの仕事でした。
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。




