今から80年前の第二次世界大戦末期、県民の4人に1人が命を落としたの「沖縄戦」――。そこでは、兵士だけでなく「ひめゆり学徒」として多くの沖縄の女子学生たちも動員された。彼女たちはまだ10代の若さで、戦争の中で何を見たのか?
テレビディレクターの渡辺考氏がひめゆり学徒の一人、山内祐子(やまうち・さちこ)さんにインタビューした新刊『ひめゆり学徒だった山内祐子さんが沖縄の高校生に伝えたこと』(講談社)より、彼女たちが命がけで過ごした日々をお届けする。(全3回の3回目/最初から読む)
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赤い色のおにぎり
南部で待ちかまえていたのは、これまで以上の食料不足でした。山内さんは、食べ物がなくて苦しかった日々をこう語ります。
「あちこちで日本軍が残した保存食のビスケット、乾パンですね、それを拾い集めてしのぎました」
そう言うと、ちょっと低い声でこう続けます。
「血で色がついたおにぎりをつくったりしたこともあるんですよね。死人も倒れている場所の米を使って」
血で色がついたおにぎり……どういうことでしょう。ある夜、山内さんと仲間たちは、軍が残した米があると聞き、おなかがすいていて、動くのもやっとでしたが、袋を持って取りに行ったそうです。しかし、米だわらのまわりには、多くの日本兵が死んでいました。それでも山内さんたちは気にしてはいられませんでした。
「袋に入れて持ってきたのですが、その米を洗いもしないで炊いたらね、赤い色で油味噌みたいな味になりました。松葉や草やら石ころやらみんな入っていて、それをおにぎりにしたらね、ちょうどお味噌が入ったような感じのおにぎりができました」



