いまから40年前のきょう、1985年9月11日、女優の夏目雅子が27歳の若さで亡くなった。短大時代のデビュー秘話、カネボウCM抜擢の裏側、芸名「夏目雅子」を名乗るようになった理由とは?(全3回の2回目/続きを読む)
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六本木生まれ、「お嬢さん女優」のレッテルに悩んだことも
夏目雅子は1957年12月17日、東京・六本木で雑貨店を営む家に生まれた。店舗はのちに首都高速道路の谷町ジャンクションの建設にともない敷地の一部が削られることになり、これを機に父がビルに建て直し、貸しビル業と貿易業にも手を広げた。そのころ小学校に入学した彼女は、短大まで私立の一貫校に通うことになる。そのためにデビュー当初は「お嬢さん女優」のレッテルが貼られ、その払拭のため悩みもした。
小学3年の頃に小児腎炎で長期間入院するなど病気がちだった彼女は、内気で、母親にかまってもらいたいあまり不登校になったこともあった。そんな彼女が演技に興味を抱いたのは小学4年のとき、児童向けドラマ『チャコちゃん』シリーズに夢中になり、子役になりたいと親に申し出たときにさかのぼる。そのときは父の知り合いに映画の助監督がおり、その人から「大人になって、それでもやりたいと思ったらやりなさい」と諭され、それで終わったという。
ヒロインオーディションに合格しデビュー
だが、ひそかに夢を抱き続けていたのか、1976年、短大に入った直後に父の友人の紹介でタオルのテレビCMに出演、さらに友人が代わりに応募していたドラマ『愛が見えますか』(日本テレビ)のヒロインのオーディションに合格し、本名の「小達(おだて)雅子」でデビューする。
それまで演技経験などなかっただけに、最初のシーンでは、名前を呼ばれて「なに?」と振り向くだけで、50回以上もNGを出したという。このあとも、役にどうしても入り込めない彼女に、とうとう監督が怒って撮影が3日間中止となってしまう。それでも女性スタッフの家から現場に通うことで、1ヵ月半の撮影をどうにか乗り切った。このとき演出を担当した監督の野村孝は、後年演技に開眼した彼女を見て《ある程度の女優にはなると思ったけれど、正直いってここまでになるとは思っていなかった》と驚きを隠さなかった(『non-no』1983年12月20日号)。
そんな彼女が、1977年にカネボウ化粧品のキャンペーンガールに抜擢されたことでたちまちブレイクを果たす。このときのCMのディレクターが、のちに夫となる伊集院静だった。

