だが、セミヌードとあって彼女の家族は衝撃を受ける。母は外を歩けないと怒り、アメリカ留学中だった兄も急遽帰国して彼女を自宅の2階に引っ張っていくと、「小達家末代までの恥だ!」と言い放った。このとき反発した彼女は、兄に軽く肩を突かれ、1階まで転がり落ちてしまう。急いで病院に連れて行かれるが、彼女は医師からケガの理由をしつこく聞かれても、階段を踏み外したとだけ言って隠し通したという。そして「今後、こんなことをしてはダメよ。女は弱いんだからね」と言って、兄を逆に謝らせたという(小達スエ『ふたりの「雅子」』講談社、1997年)。

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芸名「夏目雅子」で活動するようになった理由

 なお、カネボウのキャンペーンガールに起用されたのを機に、彼女は「夏目雅子」の芸名で活動することになった。それというのも、母が「小達」の名を使わせることを頑なに許さなかったからだ。そこでカネボウの夏のキャンペーンだったことから「夏の目玉」という意味と、彼女が茶道をやっていて、抹茶を入れる茶器である棗(なつめ)が好きだったことから「夏目」と命名されたのである。

 父が娘の芸能界入りを喜んだのに対し、母はずっと反対で、彼女が「夏目雅子」を名乗るようになってからもしばらく認めることができなかった。それが一転して受け入れることになる事件が起こる。それは夏目がテレビのナイトショー『11PM』(日本テレビ)にゲスト出演したときだった。

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激怒した母は頬をはたいて「今後いっさい『夏目雅子』は認めません。だから…」

 このとき彼女は肩をあらわにした衣装で出演し、さらには服を下げるようなしぐさまでしたらしい。それを見た母は恥じらいがないと怒り、彼女が帰ってくるや頬をはたいた。そして、気持ちが少し落ち着いてから、「ママは今後いっさい『夏目雅子』は認めません。だから家には『小達雅子』として帰ってきなさい。その代わり、家を一歩出たら、外では何をしてもいい。自由奔放に生きなさい。ママは外のあなたの世界は見ないようにします」と告げたという(前掲、『ふたりの「雅子」』)。母はそうすることで娘との関係が悪くなるのを回避したのだ。

小達スエ『ふたりの「雅子」 母だから語れる夏目雅子の27年』(講談社、1997年)

 デビュー時に猛反対を受けたとはいえ、夏目にとっても母は誰にも代えがたい大事な存在であり、それは終生変わらなかった。仕事終わりにスタッフと飲みに行っても、座がしらけてよくないことだと思いながらも途中で必ず母に電話していたという。《こんなふうだから、女優なんて職業をやってくの、とっても無理があるんです》と、のちのち女優として人気絶頂にあった頃にいたっても漏らすほどであった(『with』1982年10月号)。