どのジャンルにも属さない。しかも、彼と同じ1984年デビューは、荻野目洋子、菊池桃子、少女隊など女性アイドル花盛り。毎年台風の目となるジャニーズ事務所からも、この年は珍しく女性アイドルグループ、オレンジ・シスターズがデビュー。男性グループはThe Good-Bye(1983年)と少年隊(1985年)の間に1年あき、1984年デビューはおらず、おかげで賞レースは、男性は彼一人のことが多かった。
いつも孤軍奮闘、メインストリートにいるのにマイノリティ。ステージでなにかと戦い、何かを壊したがっている。当時、アイドルは自然とカタカナであだ名がついたものだが、彼は「キックン」などと呼ばれることなく、「吉川晃司」だった。
「松田優作のNGみたいな子ね」
デビューのきっかけは、渡辺プロダクションに届いた「広島にすごい天才がいる。これを見ないでどうする」という一通のタレコミ。しかしこれを出したのは、広島でバンドをしていた本人というからすごいガッツである。さらには、呼ばれた東京オーディションでも、強気に満ちた発言をぶちかます「ビッグマウス作戦」を貫き通した。
ナベプロの渡辺晋社長はそんな彼を気に入った。音楽評論家の吉見佑子氏も、初対面こそ面と向かって、
「松田優作のNGみたいなお兄ちゃんね。こんな子をデビューさせるの?」
という身もふたもない言葉を彼に投げかけたそうだが、のちには彼を認め、ファンクラブの担当に。そして水球で鍛えた肉体をアピールすべく、「裸がヴェルサーチ」という攻めに攻めたキャッチコピーをつけるに至るのである。
斜陽のナベプロの命運を背負う
一見、一通の手紙から、大手プロダクションに所属が決まったシンデレラボーイ。しかし実のところ、彼のスター街道は最初から茨の道だった。
ナベプロは、70年代こそ日本一の芸能プロとして君臨していたが、80年代に入り斜陽化が止まらず、吉川晃司が所属したころはすでに火の車だったのだ。キャンディーズが引退、森進一、布施明が独立……と続々と看板スターが去り、沢田研二一人に社運を託している状態。そこで、事務所なけなしの3億円をかけて、若手スター・吉川晃司を売り出すという、切羽詰まったいきさつがあった。
しかし、それは沢田研二のブレーンが吉川に分散するという副作用も生み、紆余曲折を経て、沢田が1985年4月、独立。ナベプロの命運は吉川に託されることになる。
