しかも彼がデビューした頃の歌謡界は、アイドル花の時代なうえに、C-C-B、チェッカーズ、THE ALFEE、安全地帯など、バンドも元気で、百花繚乱。競争は厳しく、吉川は、そのなかでやりたくない仕事も入れられ、結果も求められた。

「(デビュー)二年目には渡辺社長に、僕はもう辞めたいって言ってました」(「週刊文春」2012年4月12日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」より)

 そりゃそうだろう。傾きかけた歴史ある会社の命運を、10代の、広島から出たての若者がいきなり背負うのだ。その重圧たるや、想像するだけで胃が痛い。

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岡村靖幸、尾崎豊との“特殊な友情”

 さらにデビューから1年経った1985年には、おニャン子クラブが登場し、歌番組の概念が変わっていく。質より量、消費されるのを楽しみ、とことん大人たちに乗っかるか。それを否とし、自分の理想を追求するべく、もがくか。アイドルシーンはこの2択となり、明らかに吉川は後者だった。そんななか、彼は1986年、その情熱を共有できる親友に出会う。岡村靖幸と尾崎豊である。全員同い年、同じB型。

 尾崎豊は1985年「卒業」でブレイク。岡村靖幸は、「GROWIN' UP」など渡辺美里への楽曲提供などで知名度が上がっていた頃だった。

尾崎豊 ©時事通信社

 吉川は「ザ・ベストテン」の常連で多忙な時期だったが、3人で集まり、よく飲み語ったという。時には番組終わり、衣装のままで西麻布や六本木のバーで合流することもあったというから驚きだ。3人でじゃんけんして、次の店を決めたというエピソードはなんとも微笑ましい。

 岡村靖幸は対談で、「僕は、会えばしょっちゅうハグしてたと思うけど、抱きつきたくなるんです、2人に会うと。とびっきり華のある2人だったし、一緒にいるのが心地よかった」(「週刊文春WOMAN」2023年夏号「岡村靖幸 幸福への道」)と回想している。

 しかし1992年、尾崎豊が急逝。1998年、吉川は、自身のマンションで友人を殴り、ろっ骨を折るなど全治1か月のけがを負わせた疑いで書類送検されている(その後、起訴猶予処分に)。その原因は、尾崎豊の形見のギターを蹴られたことだった。