「ザ・ベストテン」をめぐる対談で初めて聞いた裏話

 この日の中継のことは、修爾さんと私(そして、おそらく久米さんも)の誇りだ。私たちが作っているのは、ふざけているようにしか見えないかもしれない、明るく、軽く、楽しい娯楽番組だけど、時には、社会的な役割を果たさなくてはいけない。まして、若いひとや、子どもたちも見ているような番組なのだから、なおさらだった。

 修爾さんは、二〇一三年に間質性肺炎のため、六十七歳の若さで亡くなった。その数年前、ある雑誌で、「ザ・ベストテン」をめぐる対談をした。前に触れたように、修爾さんは番組作りの裏話など、私の耳に入れないようにしてくれたから、そこで初めて聞いた話も多かった。

左から久米宏、黒柳徹子、永六輔 ©文藝春秋

 そして対談の最後には、こんなことを明かしてくれた。

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「これは今まで黒柳さんに申し上げたことはなかったけど、実を言うと、自分の子どもが見て恥ずかしい番組だけは作りたくないと、これだけはずっと思っていて。こんなことを言うのは恥ずかしいんですけど、何て言うのかな……お父さんはちゃんとやっているんだと。『こんなのはおかしい、ウソだ』って思われる番組作りは、絶対にしちゃいけないなって。ちゃんと胸を張って『見ていいよ』って言える番組を作らなければいけないと、十二年間、ずーっと思っていたんです」

 自分の子どもに絵本を上手に読んであげたい、という気持ちで、テレビの世界に入った私は、「番組によって、子どもたちのわかる/わからないはあるだろうけど、少なくとも、子どもたちに見せられない番組には、絶対、出ない」と自分に誓っていたので、私は修爾さんの気持ちを聞いて、(私たちは、ずっと、同じことを思っていたんだ!)と知って、とてもうれしかった。

 私が十二年間、嵐のような生放送を一緒に続けていた人は、こういうテレビマンだった。

久米宏と参列した泣き笑いのお葬式

 修爾さんのお葬式には、久米さんが自分の運転する車で私の家まで迎えに来てくれて、ふたりで参列した。青山斎場には、記者の人たちが大勢いて、私たちは囲み取材を受けることになり、カメラの前に並んだ。

©下村一喜

 私は、先に久米さんに喋ってもらおうと思って、彼を突っついた。それが合図のように、久米さんは喋りだしたけど、「山田くんは、もともと、TBSで僕の後輩アナウンサーだったんですが、これが下手でね。銀行の経理のひとみたいに真面目で、ある意味、つまんない、下手なアナウンサーでした」なんて言っているから、私は横から、「そんなに下手だ、下手だって、何回も言うの、およしなさい」と注意した。

 私たちのそんな様子が、「ザ・ベストテン」の頃のままだ、と言って、修爾さんにお別れをしに来ていた昔のスタッフたち、みんなが泣き笑いの顔になった。

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