ベネディクト16世の『神の愛』をキリスト教入門書として勧める理由
仕事柄、「キリスト教についての良い本を教えて下さい」と言われることがしばしばあるが、多くの場合、私は、ベネディクト16世の著作、とりわけ『神は愛』を勧めてきた。教皇の著作だから、教皇というカトリックの「最高権威」の言葉だから、ということで勧めてきたのではない。虚心坦懐に読んで、本当によい著作だから、多くの人に勧めてきたのである。これは、キリスト教の入門書としても、「入門」した後に理解を深めていくための著作としても、実に優れたものである。
教皇フランシスコが逝去した後、ある程度本格的にその業績がメディアで振り返られるさいには、「環境問題」をテーマとした『ラウダート・シ』が取り上げられることが多かった。じっさい、この回勅を抜きにして教皇フランシスコの全体像を理解することは不可能に近いだろう。教皇フランシスコは、キリスト教の教えそのものというよりは、その教えの現代世界への適応に焦点を当てた回勅を残したと言ってもよいかもしれない。
他方、ベネディクト16世は、より直球勝負的な仕方で、キリスト教の本質について語り続けた。そして、その成果が、『神は愛』『希望による救い』『信仰の光』である。
「信仰」と「希望」と「愛」は、キリスト教神学の伝統において「対神徳」(神学的徳)」と呼ばれ、人間と神との関係を構成する三つの主要な軸として最重要視されてきたものである。「社会問題」や「環境問題」ではなく、キリスト教神学の根本概念を「回勅」という形であらためて述べ直し、全世界に伝達する。キリスト教の伝統の現代における守護者としてのベネディクト16世の覚悟がそこには見出されるのである。
直球勝負で「愛」から語り起こしたベネディクト16世
「対神徳」という概念は、もともとは、新約聖書に含まれている「コリントの信徒への手紙一」(第13章第12~13節)の中にある以下のパウロの言葉に由来している。「神学的徳」という言い方もあるが、訳し方の問題に過ぎず、同じ概念である。パウロは次のように述べている。
12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
「神」を信じている人は「神」のことを完全に理解しているのかといえば、そんなことはない。もしも「神」と呼ばれる何ものかが本当に存在するのだとすれば、それは原理的に人間を遥かに超えた存在と考えざるをえない。現世を生きる人間は、「鏡におぼろに映ったものを見ている」ような仕方でのみ、神のことを知ることができる。古代の鏡は現代の鏡ほど鮮やかにものを映すことができるものではなく、ぼんやりと映すに過ぎなかった。そのように我々は、この世においては、神がお創りになったこの世界の様々な事物の在り方を認識することを通じて、それらのものの創り主である「神」のことを漠然と理解することしかできない、そうパウロは述べている。
