「顔と顔とを合わせて見る」とは

「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」というのは、天国において神と(まみ)えるときには、余計な夾雑物(きょうざつぶつ)なしに、神のことを「顔と顔とを合わせて」直接見ることになる、という意味である。その次の「私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」に関しては、「はっきり知られているように」という部分はわかりにくいかもしれないが、その他の部分は比較的わかりやすいだろう。私は今は「神」のごく一部しか知らないが、天国においては神のことを「はっきり知ることになる」。

「顔と顔を合わせてみることになる」が描かれたヤン・ファン・エイク「ヘントの祭壇画」Jan van Eyck, Public domain, via Wikimedia Commons

「はっきり知られているように」というのは、言葉を補うと、「いま私が神によってはっきり知られているように」という意味である。「神」の存在を信じるということのなかには、その「神」によって自らが「はっきり知られている」ことを受け入れることが含まれている。私が私自身のことを知っている以上に、神は私のことを知ってくださっており、世界全体のことを見渡しながら、私の人生を導いてくださっている。「神」を信じて生きる信仰者の基本的な自覚がここには表現されている。

「自分のことを自分以上にわかってくれている誰かがいる」ことの支え

 私のことを知ってくれている誰かがいる。人間と神との関係だけではなく、人間関係においても、それはとても重要なことである。人生の岐路に直面したとき、我々は、「誰でもいいから誰かに相談しよう」とは思わない。自分のことをある意味自分以上にわかってくれている誰かに相談してみよう、それが我々にとっての自然な振る舞いである。

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 だが、どんな親友であっても、私に対する理解には限界がある。様々な人がそれぞれ私の様々な側面を熟知しているかもしれないが、それをすべて合わせても、私の全体を理解することはできない。だが、「神」と呼ばれる何ものかが、私以上に私のことを熟知していてくださり、私を愛し、導いてくださる。そのような感覚を持つことができれば、我々は神の導きに「希望」を抱き、また、我々をそのような仕方で愛してくださる「神」のことを愛し返して歩み続けていくことができるだろう。このような仕方で「信仰」と「希望」と「愛」は、信仰者の生を導く中心軸となる。

「信仰」「希望」「愛」についてまとめて論じるさいには、パウロがここにおいて述べている順序に従って「信仰」「希望」「愛」の順序で論じることが多い。実際、トマス・アクィナスの『神学大全』においてもそのような順序で詳細な論が展開されている。

 だが、ベネディクト16世は、あえてその順序を反対にして、最初の回勅のテーマとして「愛」を選定した。「最も大いなるもの」であり、「愛の宗教」であるキリスト教の根本概念から出発するというまさに直球勝負的な仕方でキリスト教の本質を現代において語り明かそうとしたのである。