自己犠牲的な愛「アガペー」とどこまでも求めていく愛「エロース」

 ベネディクト16世は、古代から現代に至るまでのカトリック神学、そしてカトリック神学の多様な分野に通じた碩学(せきがく)であった。その豊かな知識に基づいて、教皇になる前も、なってからも、そして教皇退位後も、多様な著作群を残している。そして、真の意味で「古典」に通じている人の多くがそうであるように、単に「古典」を客観的に突き放して理解したり、または現代的な観点から「古典」を解釈するのではなく、むしろ、「聖書」やアウグスティヌスに代表される「古典」についての深い理解を背景に、現代では当たり前になっている考え方、多くの現代人にとっての「通念」となっている発想を相対化することのできる豊かな洞察を、その著作群において残してくれている。

『神は愛』という最初の回勅に関しても事情は同様である。ベネディクト16世がこの回勅において克服しようとしている様々な通念の中でも最も重要なものは、「アガペー」と「エロース」の対立、という通念である。「愛」を意味するこれら二つのギリシア語を対立させて捉える捉え方は、スウェーデンの神学者であるニーグレンの『エロースとアガペー』以来、キリスト教的な愛であるところの自己犠牲的な「アガペー」と、古代ギリシア哲学とりわけプラトンに由来する、自分にとって価値のあるものをどこまでも追い求めていく愛である「エロース」を対比させる発想として世界中の神学者や哲学者に影響を与え続けてきた。また、「ニーグレン」という名前は明示されない場合であっても、たとえば高校の「倫理」の教科書などで「愛」について紹介されるさいに、「エロース」と「アガペー」の対比という観点から説明されることは我が国でも頻繁にあるので、この二つの概念の対比について目にしたり耳にしたりしたことのある人はかなり多いだろう。

神学者アンダース・ニーグレン Riksarkivet, Public domain, via Wikimedia Commons

 また、教皇フランシスコの発想に顕著であった「貧しい人」「苦しんでいる人」「周縁に追いやられている人」と積極的に関わるのがキリスト教的な愛であるという発想に触れると、キリスト教的な愛というものは、立派なものではあるかもしれないが実践するのは困難な自己犠牲であり、少なくとも現実的なものではないという印象を持った読者も多いのではないだろうか。ベネディクト16世が挑戦するのは、まさにそのような通念に対してなのである。

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