本人の自由意志、合理性が働かない、選択の余地がないケースもあるよね? と。なのに、いま「もらいの少ない人」は、子どものころからの継続的な努力と実力の研鑽が足りないのだから、仕方がない──そう切り捨てることは、やはり結果の不平等を放置する意味において不公平ではないか? という議論が学歴社会の学術的研究の一義です。

専門的な議論はぜひ当該の書籍や論文に当たっていただければと思います。ここでは、一般書として平易に骨子を描くことに注力しますと、

多くをもらう人は、過去からいまもずっと頑張ってきて実績を残している人である

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──これを体現した学歴社会のもとでは、高い学歴を得られなかった人は、まさに努力と実力不足という判定がされてしかるべきと考えられるわけです。ですが先に述べたように、したくてもできない環境下にあることも十分に考えられるのです。

「生まれ」による有利・不利

と、さらにここで、次のような意見もありましょう。

「いや、逆境にも負けず、自分で道を切り拓ける人もいる」
「経済的な逆境なら、安価な公教育もあるし、奨学金制度だってある。チャンスは『平等』にあったのだから、本人の問題じゃないか」

と。えぇ、さもありなんといった主張です。

しかし、これらの言説についても、教育社会学は毅然として、実証研究をもって反論します。ランダムサンプリングによる大規模調査および精緻化された統計手法の発展により、次のような、世代をまたぐファクトが抽出されました。

(1)学歴はまずもってその人の所得(稼ぎ、もらい)との相関がある
(2)本人の学歴は親から子へと再生産される(親子の学歴に相関がある)

(1)については図表1のとおりです。学歴が高いほど平均賃金も高いのです(ここでは主旨ではありませんから男女格差については言及しません)。

そして問題は(2)。大卒の親の子供は大卒に、非大卒の親の子供は非大卒になるという、いわゆる親子の「学歴再生産」の傾向が、実証的に示されています。『教育格差 階層・地域・学歴』の松岡亮二氏の見解を参照しましょう。