(1)と合わせて考えると、賃金の傾向は学歴を媒介して世代を超えて再生産されやすいのです。極端な言い方をすれば、高学歴でハイソ(ハイソサエティ=上流の)、裕福な子はやはりそのハイソな界隈で裕福になりやすい。家が貧しいと、なかなか実家以上の暮らしになりにくい、というわけです。
学校は「平等に機会を与える場所」のはずなのに
その配分装置が、平等に機会を与えるとされている学校教育であることが特筆事項です。そこを媒介して、あたかも正当に「能力」を測ったと見せて、職業へと振り分けていく学校。これでは、生まれの違いが解消されないどころか不問に付されたまま。ゆえにその結果にはさらなる差が生まれます。そしてそれは世代を超えて、
「もともとラッキーな人はさらに強くしてもらい、もともと社会的なリソースが不足がちな人も、同等のチャンスはあげたのだからあとは頑張ってなんとかしなさいよ」
──で済まされてしまう。松岡氏が『教育格差』で述べたとおり、
「この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差がある(中略)この機会の多寡は最終学歴に繫がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり、20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ」というわけです。
学校というシステムの「構造的な欠陥」
家庭ごとの社会階層(社会的な立ち位置。職業の威信や年収、居住地などで社会科学の研究では指標とされる)は再生産されるものの、その事実は機会の平等を盾にとり、あくまで本人の努力・実力の問題であるとされます。ひいては異議申し立てを許さない社会を盤石なものとするわけです。
この、学校教育という機会の平等で覆い隠された、結果の不平等という問題。教育社会学が実証的に世に知らしめてくれるまで、世間はおよそ、学歴社会で勝ち残るか否かは、本人の「能力」の問題だと信じて疑いませんでした。しかし、教育社会学者が「学校システムや就労のシステムを含めた、社会システムが、構造的な公平性を失っているのに、世間は問題を個人化しているじゃないか!」というのは、じつに的を射た指摘です。