――あとがきでは、ご自身の信仰の歩みについても触れられていました。神について語ることの難しさと、教皇の言葉はどのように繋がっているのでしょうか。
山本 私は、カトリック系の中高の出身なのですが、私自身は、中学生の頃はキリスト教の信仰を持っていたわけではなかったので、信仰を持っている元々カトリックの家庭の友人などに関して、「本当に神などというものを今時信じていたりするのかな」と非常に奇妙に思っていたわけなんですね。それで、あるとき、彼に「信じているといいことがあると思っているのか」というようなことを聞いたら、「今すぐいいことがあるかどうか分からないけども、長い目で見ればいいことがあるかもしれないと思う」という答えが返って来たですね。それに非常に驚いたんです。単なる「迷信」とは異なる「信仰」というものの在り方に初めてありありと触れたという思いがしました。
その後、色々なことがあって自分自身も信仰を持つようになって30年ほど経ちますが、神について語ることの難しさは日々痛感しています。人に説明できないことは、自分自身も本当に理解していないということ。言葉を人に届けて初めて、自分も納得できるのだと思うんです。その点でベネディクト16世の姿勢には特に励まされてきました。彼は現代社会において神について語ることの難しさを熟知しながら、それでもゼロから言葉を紡いでいく。
だから私にとって現代の教皇は単なる研究対象ではなく、ともに言葉を探し続ける「同行者」なのです。
教皇の名に込められた意味とは――名は体を成す
――教皇が選ぶ名前にも深い意味がある、という点も興味深かったです。
山本 とりわけ亡くなったフランシスコは、初めて「フランシスコ」という名を選んだ型破りな人物でした。
アッシジのフランシスコは、皮膚病の人を抱きしめ、イスラムのスルタンと対話し、小鳥に説教した――分断に橋を架け、自然界との調和を大切にした人物です。これはまさに現代世界が必要としている様々なメッセージがアッシジのフランシスコという人物には埋もれていて、それを教皇名として選び取り、実践的に取り組んだ非常に型破りな教皇だったなと。フランシスコが教皇であるときには当たり前のように受け止めていたわけですが、決して当たり前ではない、非常に稀有な人物だったんだなと。教皇名というのは単なるレッテルではない、本当にその教皇の実質を体現しているものだなと思っています。
――最後に、読者の方へのメッセージをお願いします。
山本 繰り返しになりますが、信仰の有無にかかわらず教皇の言葉に一度も触れずに人生を終えるのは本当にもったいないことだと思います。
たとえばベネディクト16世の『神は愛』、フランシスコの環境についての回勅『ラウダート・シ』は、キリスト教への見方を一新させ、現代の危機に深く響いてきます。「世界」や「人生」についての捉え方に、必ずや多くのヒントを与えてくれることと思います。本書が、そうした言葉に触れるきっかけになればと願っています。