「『40歳で介護離職を2回していて、遠距離介護をしている男性なんて、世の中になかなかいないよな』と……。でも、自分みたいな人はこれから増えるんじゃないかと思い至ったんです」

 東京に戻った工藤さんは、『40歳からの遠距離介護』というタイトルでブログを立ち上げる。これが「介護ブロガー」として生きていく第一歩だった。

祖母の死

 介護離職した工藤さんは、盛岡で1週間、祖母と母の介護をし、東京に戻って2週間過ごすというペースで遠距離介護を続けつつ、「介護ブロガー」として介護ブログを更新する日々を送った。

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 もともとアルツハイマー型認知症と診断されていた祖母は、「同じことを何度も言う」「妄想がある」「徘徊する」という症状があるほか、自分の便を床や壁に塗り広げる「弄便」や、一番下にパジャマを着た上に服を着る「着衣失行」もあった。祖母は、1つ目の病院で放射線治療を受け、2つ目の病院でベッドから落ちて大腿骨を骨折し、3つ目の病院で大腿骨を金属で固定し、2つ目の病院へ戻った。3ヶ月の間に、実に3つの病院を行き来したことになる。

 工藤さんは、祖母に会う時は、いつも笑顔を心がけた。

「認知症テストで、30点満点中5点しか取れないところまで進行していた祖母ですが、人が変わったように穏やかでにこやかになって、最期まで笑顔には笑顔で対応してくれました。笑顔を認識する能力は、最期まで衰えないみたいです」

 祖母は2013年、90歳で亡くなった。ちょうど盛岡に来ていたタイミングだったため、工藤さんは病院からの連絡を受け、母親と駆けつけた時はまだ医師の死亡確認前だった。

 そこから、病室の荷物をまとめ、葬儀社へ連絡。慌ただしく時間が過ぎた。

 葬儀後、役所などでさまざまな手続きを済ませ、四十九日などの法要が終わり、2ヶ月ほど経った頃、ようやく工藤さんは「終わった……」という達成感に満たされた。

「すでに重度の認知症になっていた祖母には、最期まで余命を伝えていませんでした。それは今も『正しかったのだろうか』と考えることがあります。でも、もしも祖母の介護をせず、東京で仕事を続けていたら、こんな気持ちにはならなかったし、まだ40歳だった僕は、残り半世紀近く生きる中で、もっと後悔し続けていたと思います。この時、『介護離職という選択は間違っていなかった』と強く思いました」

 祖母が亡くなったあとも、工藤さんは母親の介護のために、1週間盛岡で介護し、東京で2週間過ごすという日々を繰り返す。介護ブログも続けていた。

「ブログを開設した当初はほとんど読まれず、これまでの貯金とブログで得たわずかな収入で生活していました。盛岡に通うのも、節約のため夜に出て朝に着く高速バスを使っていました。年収は会社員時代の5分の1まで落ち込みましたが、1年、2年と継続しているうちに、少しずつアクセス数が増えていきました」