父親の死
工藤さんは、何十年も家出したままで、祖母や母親が認知症になったと伝えても無視を決め込み、介護どころか面会さえしなかった父親を、祖母の葬儀に呼ぶつもりはなかった。しかし、事情を知らない葬儀社が気を利かせて連絡してしまったため、父親は葬儀直前に現れた。
「父は、喪主である僕にあれこれ指図したあげく、亡くなった祖母に対しての物言いがあまりにひどかったため、僕から絶縁を言い渡しました」
それから4年後の2017年。妹から突然連絡が入った。
「お父さん、小腸に穴が開いて緊急入院したって!」
一度は絶縁を言い渡した工藤さんだったが、すぐに父の元へ向かった。
病院で4年ぶりの再会を果たした父親は、生きる気力を失い、複数のチューブに繋がれ、虚な目で天井を見つめていた。
「父は小腸に穴が開いていて、痛くて何も食べられず、勝手に脳梗塞や高血圧の薬も止めてしまっていました。そんな状態になる前に普通なら病院に行きますが、父は自分で自分の虫歯をペンチで抜くほど、病院に行かない人でした。腎機能も低下し、がんの可能性があるとのことで検査したところ、悪性リンパ腫と診断されたようです」
すでに抗がん剤治療に耐える体力すら残っていない状態だったため、医師からは緩和ケアができる病院を勧められた。
工藤さんはそれに応じず、父親に余命を伝えた上で、「どういう治療がしたい?」「延命治療はする?」「葬儀は誰を呼ぶ?」などと父親を質問責めにした。祖母の時に本人の意思を確認できなかったことを悔やんだため、同じ後悔を繰り返したくない一心からだった。
父親の希望を聞き、工藤さんは在宅での緩和ケアを選択した。
マンションに戻ってきた父親は、水を舐めることしかできず、ベッド脇のポータブルトイレに移動するのに10分もかかるほどだった。
しかし1週間経たない頃、父親は突然「『ランボー』が見たい」「メロンパンが食べたい」「コーラが飲みたい」と言い出し、徐々に「1人でトイレに行けるようになりたい」「外を歩きたい」と口にするようになった。
工藤さんは在宅医に確認をとりながら、父親の希望を叶えて行った。
「調子が出てきた父に、リハビリの大切さを説明すると、ベッドの上で手足を動かすようになりました。在宅にして3週間後には1人でトイレに行けるようになり、ゆっくりですが外を歩けるまでになりました。亡くなる2日前には2人で焼肉屋に行き、カルビにビール、卵かけご飯を食べられるほど回復しました」
父親は工藤さんが東京に戻った翌日、容態が急変。自力で会社の元同僚に電話し、同僚が救急車を呼び、早朝に病院で亡くなった。76歳だった。
