ガサかけに行った魏のマンションで「あらーっ、これは!」
「つまり、身柄を確保した段階では、Aさん一家殺人事件に関わっているかどうかはわかっていなかった、と」
Qさんは頷き、「わかってなかった」とだけ答えた。
「それが(事件への関与について)確信に変わったのは、いつのことですか?」
「これがまたびっくりですよ。(魏が出国の直前まで別の女性と同棲していた)博多駅のそばのマンションに、ガサをかけるため行ったんですよ。そしたらマンションの扉があるやないですか。非常階段の扉。そこにアレがちょうどあるんですよ……」
ここでQさんが「アレ」と言ったのは、非常階段の扉を固定するために置かれた、箱型の鉄製重しのこと。それは、海中から発見されたBさん(死亡時40)の遺体の右手首に繋がれていた、重さ30.45kgの重しとまったく同じものだった。
「それでこの重しを鑑定に出して、同じ物だということがわかりました。じつはそのガサをかける前に、魏巍にやったポリ(ポリグラフ)の結果が真っ黒やったんですよ。それと併せて(被疑者)決定となった。私もそのガサのときは一緒に行ってましたからねえ。そしたら扉のとこに(重しが)あるやないですか。あらーっ、これは! っちゅう感じですよ」
そう言うと当時の光景を思い出したのか、Qさんは「ふふふ」と笑う。
「魏は当初は犯行への関与について否認していたと聞いてますが」
「そうそう、もちろん」
「それに、犯行に関わった人物についても、その時点では魏を含む3人だけ、ということはわかっていないわけですよね?」
「そうです。まあでも、魏の供述からいろいろわかって、ああ、これは3人だけだとなりました」
中国公安当局との捜査共助
魏の逮捕から9日後の8月15日に、捜査本部は在中国日本大使館を通じて、中国の公安当局に事件の概要を説明。すると、同月19日に中国・遼寧省遼陽市で王が、27日に同国・北京市で楊が、それぞれ身柄を拘束されたのだった。そこで私は尋ねる。
「ちなみに、中国公安当局との捜査共助はいつ頃から始めたんですか?」
日本と中国との間で、日・中刑事共助条約が締結したのは、これよりも後の07年のことであるが、この事件においては、中国の公安当局も協力的で、03年から04年にかけて、双方の捜査員が互いの国に行き来して、情報を交換した。Qさんは当時を振り返る。
「それはねえ、魏のことがあって、もう1個班を入れたんですよ。特捜班に。一課長がもう1個入れろ、と。それでもう1個の班が中国に行ったんです」
特捜班は十数名で構成される。そこにさらにもう1斑、十数名が加えられたということだ。Qさんは説明する。
「それに特捜班以外もいるんで、全部で100人くらいはおったでしょうね。機動捜査と所轄の東署員もおりましたから」
こうして「福岡一家4人殺人事件」は、国境を跨いで展開していくことになる。
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