かくして、私と母の唯一の接点は保険金の支払いだけになったのです。その後、話を重ねて父は学費を援助してくれるようにはなりましたが、一時期の私は高校生で学費、下宿代、保険料を支払いながら学生生活を送っていたのです。

 高校を卒業してからは、テレビ番組のアシスタントの仕事もやったり、和田アキ子さんがMCになって始まったばかりの『アッコにおまかせ!』のアシスタントや、大橋巨泉さんが司会の『11PM』にも出演したりとがむしゃらに働きました。その後、太田プロダクションに入りました。

 当時の太田プロの同期には、モノマネ芸人として大ブレイクする松村邦洋くんや、これもアントニオ猪木さんのモノマネで一世を風靡した春ちゃんこと春一番、そして爆笑問題の二人がいたのです。これは方々で話していますが、同期芸人たちで合同コントを新年のライブでやってみようということになり、打ち合わせのために私のアパートに集まることになりました。打ち合わせもそこそこに飲み会になり、みんながワイワイ騒いで、一人帰り、二人帰りとなっているなか、最後まで残った太田と春ちゃんが朝方に帰ったのに、なぜか太田だけがまた戻ってきて、そのまま居着いてしまったのです。

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出会った頃の2人 ©タイタン

 その後、太田との出会いから1年半ほどで結婚しましたが、そのことを母に告げても、ただ一言、「ふーん、そう」と短く答えるだけでした。いつもの反応です。相手はどんな人なのかを聞くこともなければ、2人で顔を見せなさいと言うこともない。結婚式をやりたくないと考えていた私は、干渉してこなかった母はありがたかったのです。

 太田と結婚したのは爆笑問題の独立騒動の渦中で、太田の仕事がまったくなくなった時期。駆け出しの頃の勢いのまま爆笑問題が売れていくと思っていた私たちは、家賃が20万円ほどする家に引っ越したばかり。みるみる減っていく収入の大半は家賃と光熱費、日々の生活費に消えていき、家計は自転車操業でした。このままでは持たないと思って、私は田中(裕二)と同じくコンビニでバイトを始め、高価なものは質屋に入れていたというのはここまでにも語ってきた通りです。

爆笑問題 ©タイタン

「支払いがまだなんだけど」

 そこにまた母がやってきます。保険料の取り立てです。

 結婚を告げても、ただ一言、「ふーん、そう」と短く答えるだけだったあの母が、私たちの住む家に突然やってきたのです。当時の母は定年の六十歳を超えていましたが、成績優秀だったため契約を延長して働いていました。家出をしてから私が毎月支払っていた保険料は2万円弱です。稼いでいるときはさほど気にならない支出でしたが、収入が減ってしまう時期には実に痛い。一体何のために生命保険をかけているのか。いざという時のために、というのが保険の売り文句ですが、私のいざという時は今ではないかと思っていました。この頃になるといよいよ預金も底をついてしまい、引き落としでの支払いができない状態になっていました。