それでも父は母の信仰を受け入れていたし、母が自分で稼いだお金を宗教団体へ寄付したり、お布施として納めたりすることにも口を出しませんでした。ただし、自分が特定の宗教を信仰することはありませんでした。それが父の生き方だったのです。

 私は宗教の勧誘に訪れる人たちを何度となく理詰めで追い返す父の姿を見て、「信頼できる人。私も同じように何を信じるかは自分で選びたい」と考えるようになりました。10歳くらいになると、母に対して「もう宗教の集まりには顔を出したくない」とごねるようになります。母は母で、「光代がこんなことを言うのはあなたのせいだ!」と父に怒りをぶちまけていました。家庭に不協和音が鳴り響き始めました。

“巨大仏壇”が部屋を埋めた

 そしてついに、決定的な事件が起こります。

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 私が中学生になったばかりのとき、家に帰ると六畳もない部屋のなかに巨大な仏壇が設置されていたのです。当時住んでいた団地は今でいう2LDKの狭い間取りでしたが、その所帯には不釣り合いに大きな、三方開きの扉のついている高級仏壇でした。どう考えても団地の階段を通って搬入できるサイズではなく、おそらく私と父のいない日中にクレーンで吊るして窓から入れたに違いありません。

 学校から帰ってきた私を見るなり、母は自慢げに言います。

「どう? すごいでしょ」

「どうって言われても……」

「これ、全部手彫りなの。ほら」

 母はそう言ってうっとりした表情で仏壇を見つめていました。彼女からすれば、仲間内では誰も持っていないような自慢の逸品です。その日の夜、母は仲間に新しい仏壇のことを話すためか、足取り軽く、宗教の会合へ出かけていきました。残された私は巨大仏壇を見ながら、こう思ったのです。

「お母さんはもう話が通じないところにまで行ってしまったんだ」

 悲しくなりました。母によれば、巨大な仏壇は値段にして1000万円はくだらないものだったそうです。今思えば、一家3人の生活費はすべて父が払っていたのです。保険のセールスは歩合制で、持ち前の営業トークに加えて、宗教でできたネットワークも駆使した母は営業所トップクラスを維持していたので、同世代のなかでもお金を稼いでいたのです。しっかりと貯金もしていた母は、現金一括払いでその仏壇を購入したと誇らしげに語りました。

太田光代さん ©文藝春秋

 しばらくしてから帰ってきた父は、仏壇の前で絶句してしまいました。そして私に向き直った後、ぽつりとこう言ったのです。

「光代、ごめんな」

「え?」

「お父さん、いよいよお母さんと離婚するかもしれない」

 なんで離婚するの? とは口が裂けても言えませんでした。というより、父の気持ちのほうがよくわかったのです。

「ここまで大きいとはな……」

「私のこと、置いていかないで」

 その表情や声のトーンを思い出すと、あのときの父は本気だったと思います。けれど、血もつながっておらず、10年も一緒に住んでいない娘を不憫に思ったのか、結局は離婚を踏みとどまったのです。