じつは、遊里などを描いたいわゆる好色本は、すでに享保7年(1722)、8代将軍吉宗による「享保の改革」のもと、町触で禁じられていた。だが、時間を経て有名無実になっていた。そこで定信は、寛政2(1790)年5月と9月、70年近く前の禁令を確認する御触書を出し、洒落本の刊行を原則として禁じることにした。

将軍家斉が入り浸る先の大奥を徹底的に締め上げ、年間20万両といわれた経費も3分の1にまで減らしたという定信。市井の男性が入り浸る遊里も嫌ったのか、遊里を舞台にした戯作は事実上、出せなくしてしまった。

しかも、続けて10月には洒落本や黄表紙などを刊行する場合、地本問屋の仲間内で、内容に問題がないかどうか「行事」が確認する「改」を行うように義務づけた。相互監視システムによって、徹底的に取り締まろうとしたのである。

ADVERTISEMENT

大奥の締め付けと洒落本禁止の意外な共通点

だが、蔦重は「べらぼう」でも描かれているように、定信の締めつけに確信犯的に抵抗したのだろう。京伝に『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』という3冊の洒落本を書かせ、寛政3年(1791)に刊行した。

とはいえ、なんら配慮をしなかったわけではない。それらは遊女たちの風俗を題材にしながらも、舞台や時代の設定を変え、遊びに深入りしすぎるとマズいという教訓まで織り込んで、単なる好色本ではないように仕立ててあった。

それでも、綱紀粛正の徹底を図る定信のお目こぼしを得ることはできず、蔦屋も京伝も、さらには「改」にかかわった地本問屋仲間の「行事」までもが、重い罰を受けることになってしまった。

大奥の倹約と綱紀粛正。市井の遊里を対象にした洒落本の禁止。両者のあいだには、共通点がないように見えて、じつは「女の園」でつながっている。それらへの定信の介入には、女の園への入り浸りを嫌がる定信の性癖も、見てとれるように思われる。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
次のページ 写真ページはこちら