まず、定信の老中就任に反対した2人、「べらぼう」では冨永愛が演じた高岳、それから滝川を追い出した。続いて、ドラマの第37回で描写されたように、寛政元年(1789)11月には、大崎を解任してしまった。

とりわけ大崎の解任は、たとえ老中首座兼将軍補佐の判断としても、かなり大胆なものだったといえる。大崎が大奥で絶大な力をもったのは、彼女が将軍家斉の乳母だったからなのである。それを定信は、家斉の正室の寔子(ただこ)に付く女中と、家斉に付く女中との対立を煽ったとして、追い出してしまったのだ。

側室の叔母も追放

そんなことをして、将軍家斉の反感を買わないはずもないが、定信はさらに突き進んでいった。寛政4年(1792)8月には2人の上臈御年寄、梅野井と高橋を解任している。とくに高橋を追い出した影響は大きかった。

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家斉は寛政元年(1789)3月、側室のお万の方に、のちに尾張徳川家に嫁ぐ長女の淑姫(ひでひめ)を産ませた。家斉にとってはじめての実子で、側室のなかでもとりわけお万の方を寵愛した家斉は、その後、長男と次女、三女も彼女に産ませた(その3人は夭折した)。高橋はそのお万の方の叔母だったのである。

家斉最愛の側室、お万の方が長男の竹千代を生むと、その周囲の女中たちは、正室の寔子が男子を生まないように呪い、寔子付の女中たちとの対立が生じたといわれる。定信はそれを解消するために、高橋を解任したというのだが、将軍補佐役としての自分に、過剰なまでの自信をいだいていたのだろうか。将軍最愛の側室を支える身寄りを追い出すというのは、かなり大胆だというほかない。

定信は将軍補佐役として、大奥に入り浸る家斉にがまんがならなかったのだろう。だからといって、最高権力者たる将軍の乳母や、愛妾の叔母を追放したりすれば、自分の立場が危うくなるに決まっていると思うのだが。

嫌な感じの「相互監視システム」

さて、山東京伝が書き、寛政2年(1790)に蔦重が刊行した前述の『傾城買四十八手』は、それ自体がお咎めを受けることはなかったが、定信が黙って許したというわけではなかった。