大奥vs.定信の結果

市井における女の園が吉原なら、江戸城における女の園は大奥だった。「べらぼう」第37回では、吉原が苦境だという話に続いて、場面は大奥に切り替わった。

大奥の女中の最上位に位置する上臈御年寄の1人である大崎(映美くらら)が、定信と対面していた。大崎が「大奥はすでに倹約に努めております。これ以上、なにを削れと?」と問うと、定信は羊羹(ようかん)の倹約を要求し、続いて、倹約すべき事柄を列挙した書状を渡した。

すると定信は、大奥の嘆願を受けた一橋治済(生田斗真)に呼ばれた。「大奥があまりに質素なのは、ご公儀の威光に関わるとのお」と伝える治済に、定信は「贅沢であれば威厳があるというのは、浅薄極まりない考え」と反論。治済から「大奥の女たちには、表に出る楽しみもない」のだから、中で楽しむことぐらい許してほしいと頼まれると、「では、中の楽しみを減じぬような倹約の手を、私のほうで考えましょう」と伝えた。

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そして後日。家臣が治済に「大奥より使いが参り、大崎殿が老女の役を免ぜられた」と伝えた。そこにいた定信は、「大崎殿は不正な貯えのほか、老女の任にふさわしからぬ行いも多く認められ、お役を免ずべきと決しましてございます。お約束どおり、楽しみを減ずることなく倹約もかないましたかと」と啖呵を切った。

細々とした倹約をたくさん強いるのが嫌なら、贅沢好きな老女をまるごと排除してしまえばいい、というのが定信の理屈だった。

将軍家斉の乳母すら追い出した

このように、松平定信が「寛政の改革」で取り締まった対象には、女性がらみの場所が多かった。最初に大奥から見ていきたい。

将軍に直接お目通りできる「御目見得以上」の大奥女中は、将軍の側近くに仕えて公家出身者が多かった「上臈御年寄」が最上位で、「御年寄」「中年寄」「御客会釈」「御中臈」「御小姓」と続いた。トップの上臈御年寄は定員が8人だが、定信は老中就任中の6年間に、8人のうち5人を解任してしまったのである。