「もう終わりやからええやん」と花を持ち去るケースも

 この事態を受けて、花の万博協会は場内放送で「花は持ち帰らないでください」と呼びかけ、大勢の職員が警戒にあたったものの、なかには制止しても「もう終わりやからええやん」と言いながら持ち去るケースもあったという。

 会場警察隊は、ほかの人が何気なく引き抜くのを見て「最終日だから主催者が許した」と誤解した人が多かったと推察した(『毎日新聞』1990年10月1日付朝刊)。一方で、《見学予定の人たちの間では数日前から「最終日は自由に花をもらえる」といううわさが流れ、協会や各庭園にも問い合わせがあったことから、同協会では警戒を強めていた》とも報じられている(『読売新聞』1990年10月1日付朝刊)。誤解やデマから人々が集団で暴走してしまうということは、いつでもどこでも起きうることであり、その意味でも教訓とすべき事件だろう。

「花博が『最後の巨大博覧会』になるのではないか」

 1980年代末には博覧会が日本各地で開催された。花の万博はその締めくくりとも位置づけられる。その閉幕の翌年、エコノミストの間仁田幸雄は著書に《花博が「最後の巨大博覧会」になるのではないか》と書き、その理由の一つとして、博覧会づくりがステレオタイプ化し、運営面でも魔性に魅せられた強引さだけが目立つようになってしまったことを挙げている(『地域を創る夢装置 博覧会から地域を見る』誠文堂新光社、1991年)。

ADVERTISEMENT

 事実、1994年に東京の臨海副都心を会場として万博並みの規模で予定されていた世界都市博覧会は、バブル崩壊などもあって2年後ろ倒しになった末、1995年に中止される。国際博覧会も、日本国内ではこのあと2005年の愛知万博まで開かれなかったうえ、開催までにも紆余曲折があった。

大阪・鶴見緑地の風車 ©AFLO

花の万博の閉幕後の跡地は…

 花の万博の閉幕後、一部の施設を残しつつ鶴見緑地は花博記念公園として改めて整備された。開催時に建てられて現存する施設のうち「咲くやこの花館」は日本最大級の温室で、熱帯から極地圏まで世界各地の植物を展示する。また、万博開催前年の1989年に亡くなったパナソニック創業者・松下幸之助が私財を投じて建設した国際陳列館は、その後も陳列館ホールとしてさまざまな国際的なイベントやシンポジウムが行われてきた。2010年には開催20周年を記念して「花博記念ホール」という愛称がつけられている。

 なお、再来年の2027年には、花の万博と同じくAIPHとBIEの承認による国際園芸博覧会が横浜で開催される予定だ。現在までに発表されている会場予想図を見るかぎり、パビリオンらしき建物は周囲に点在するにとどまり、会場の大半は花や緑が占め、かつての花博とは一線を画すものになると想像される。

2027年に横浜で開催予定の国際園芸博覧会(公式サイトより)