戦没者が最も多かった1920~1923年生まれの若者たち。青春を戦争に翻弄された彼らは、悲惨な戦場で一体なにを経験していたのか。
読売新聞記者で戦争に関する取材を重ねてきた前田啓介氏の『戦中派 死の淵に立たされた青春とその後』(講談社現代新書)の一部を抜粋し、紹介する。(全3回の1回目/続きを読む)
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「ああ、もう生きて帰れやへんのや」――千玄室
誰もが納得できない思いを持って戦場へと向かっていった。
「気持ちは高ぶっていたが、心の中では戦争というものを呪っていた」
そう話してくれたのは、2025年の8月に亡くなった茶道裏千家前家元で、大宗匠の千玄室(せん・げんしつ)さんだ。千さんに話を聞いたのは2023年9月下旬のことだった。1923年4月生まれの千さんはこの時100歳。海軍に入隊した学徒兵の1人だった。1944年3月、配属されていた徳島海軍航空隊で、特攻隊が編成されると、志願した。
訓練の休憩中、仲間たちは千さんの点てるお茶を楽しんだ。ある日、千さんが点てたお茶を隊員の1人が飲んで「生きて帰ってきたら、お前んとこの茶室で茶を飲ませてくれよ」と言った。「その瞬間、突き落とされたようになった。ああ、もう生きて帰れやへんのやと」。すると、戦後、俳優として活躍する西村晃(にしむら・こう/1923年生まれ)がすっと立って、自分の故郷の方を見て「お母さーん」と叫んだ。他の隊員たちも同じように叫んだ。
「みんなお母さんが恋人やった。もういっぺん、お母さんに抱いてもらいたい、頭をなでてもらいたい。あの頃を思い出すのは、もう嫌だ」
そう語ると、言葉に詰まった。
4月中旬、千さんは松山海軍航空隊に転属になり、出撃することなく終戦を迎えたが、特攻隊員として飛び立つ多くの戦友を見送った。千さんは感慨を込めてこう言う。
「今そこで元気で話していたのが、出ていって亡くなる。運命は紙一重だとしみじみ思いました」
飲み屋は学生服の客でいっぱいに
彼らが学生の立場を引きはがされ、戦場へと向かわせられた時期は、今から考えると終戦まであとわずか1年と8ヵ月であった。しかし、それは太平洋戦争のもっとも過酷な時期と重なり、悲劇性を演出することになってしまったのが彼らの死であった。ここから無数の死を生みつつ、敗戦へ向かって転がり落ちていく。
安岡章太郎の自伝的エッセイ『僕の昭和史』によれば、学徒出陣が決まると新聞やラジオが学生を讃美し、同情を示すようになったという。渋谷や新宿の飲み屋は学生服の客でいっぱいになり、酒に酔った学生が肩を組んで高歌放吟しながら歩いても街の人たちが見とがめることはなかった。安岡は「戦前の『自由』な時代が戻ってきたような、何かそんな気分を掻き立てられてでもいるようだった」と懐かしむ。
