戦没者が最も多かった1920~1923年生まれの若者たち。青春を戦争に翻弄された彼らは、悲惨な戦場で一体なにを経験していたのか。

 読売新聞記者で戦争に関する取材を重ねてきた前田啓介氏の『戦中派 死の淵に立たされた青春とその後』(講談社現代新書)の一部を抜粋し、紹介する。(全3回の2回目/続きを読む

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「限界を問う飢餓」――中内㓛

 年が明け早々の1月9日、フィリピンのルソン島に米軍が上陸を開始した。迎え撃った陸軍大将の山下奉文(やました・ともゆき/1885年生まれ)率いる第十四方面軍のなかに、後にダイエーを創業する中内㓛(なかうち・いさお)もいた。中内は1922年、大阪府西成郡に生まれた。1941年、神戸高等商業学校(後の神戸商科大学、現在の兵庫県立大学)を繰り上げ卒業し、日本綿花(現・双日)に入社した。1943年1月、陸軍現役兵として入営し、独立重砲兵第四大隊に配属され、ソ満国境の守備隊として綏芬河(すい・ふんが)に駐屯した。

 中内も理不尽なしごきにあった。政治学者の御厨貴(みくりや・たかし/1951年生まれ)らのインタビュー(中内潤・御厨貴編著『中内㓛』)に答え、「毎晩、ビンタで兵隊を鍛えるというんですね。目から火が出るほど殴られて、『ありがとうございます』と言う。教えてもらったことについては、ありがとうございますと言って、殴られたことに礼を言うわけです。そういう軍隊の表裏の陰惨なことがありますね」と語っている。

 軍事訓練と鉄拳制裁の日々を過ごしていた1944年7月、フィリピンへと転戦となる。第十四方面軍隷下の混成五十八旅団の所属となり、ルソン島リンガエン湾の守備に就いた。

玉砕は免れたが、まだ死線は越えておらず

 1945年1月23日未明に玉砕命令が下されるが、その直後ゲリラ戦の命令が下される。玉砕は免れたが、まだ死線は越えていなかった。手榴弾の攻撃を受け、二の腕、大腿部に重傷を負う。走馬灯のように子供の頃からの思い出がよぎった。後に中内がくりかえし語ったすき焼きがぐるぐると頭を回ったというのは、この時だった。「電球の赤い光があって、そこにすき焼き鍋があって、家族6人ですき焼きを囲んでいる。そこでハッとして、もういっぺんすき焼きを食わないといかんなと思いました」。

写真はイメージ ©︎snowleopard/イメージマート

 出血のため急に力が抜け、崖の下まで滑り落ちていたが、幸い衛生兵が気づき、止血してもらうことができた。野戦病院に行けと言われ向かったが、病院は跡形もない。野戦病院を追いかける負傷者たちが集まっていた。顎のない兵隊もいた。中内は「人間はよく生きているなと思いましたね」と振り返る。

 敵に追われるなか、中内は本隊をめざした。インタビュアーである歴史学者の中村尚史(なかむら・なおふみ/1966年生まれ)が「かなり絶望的な状況だったと思いますが、どういう気力で続けられたんですか」と尋ねると、中内は「気力も絶望もないですね。単に、生きておる、というだけですね」と答えている。