戦没者が最も多かった1920~1923年生まれの若者たち。青春を戦争に翻弄された彼らは、悲惨な戦場で一体なにを経験していたのか。
読売新聞記者で戦争に関する取材を重ねてきた前田啓介氏の『戦中派 死の淵に立たされた青春とその後』(講談社現代新書)の一部を抜粋し、紹介する。(全3回の3回目/はじめから読む)
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素朴で健康な若者の葛藤――林市造
1945年1月には、全軍特攻の方針が決定され、特攻が盛んに行われるようになる。彼らの苦悩は何のために死ぬのかに尽きた。特に特攻隊の隊員の遺書からは、それが強烈に伝わる。
彼らは様々な答えを探し求めた。その答えを今この国、未来の国、そして家族、恋人のためと考えた者もいた。慶応義塾大学出身の学徒兵で一式陸上攻撃機の陸攻機長として出撃し、宮城県の金華山(きんかさん)沖で戦死した宅島徳光(たくしま・のりみつ/1921年生まれ)のように、「まだ顔もよく見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれる子供達」のために死ぬのだと宣言する者もいた(宅島徳光『遺稿くちなしの花』)。
クリスチャンだった学徒兵、林市造(はやし・いちぞう)は1922年生まれ。京都帝国大学経済学部在学中に学徒出陣となり、海軍第十四期飛行予備学生として、土浦海軍航空隊で訓練をした。1944年9月、朝鮮半島にあった元山(げんざん)航空隊に配属となり、特攻隊の要員として速成訓練を受けた。1945年4月12日に出撃し、沖縄沖で戦死した。
国は「聖戦」と呼ぶが、戦争の意義を信じ切ることができず
林の福岡高等学校と京都帝国大学での2学年先輩で、しかも同じくクリスチャンだった湯川達典(ゆかわ・たつのり/1921年生まれ)は著書『ある遺書 特攻隊員 林市造』に、終戦翌年の6月に回覧雑誌『止里可比』に発表したエッセイを再録している。そこには高等学校時代、YMCA(キリスト教青年会)の集まりでの林の様子が記されている。開戦1年前、1940年のことだ。日中戦争の最中である。国は「聖戦」と呼んだが、彼らの心中は戦争の意義を信じ切ることができず、暗かった。
そんななかで、芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ/1892年生まれ)の自殺について議論となった。芥川の自殺は1927年の出来事だったが、湯川たちにとって「切実だつたし、そこから抜け切ることが出来ずにもがいてゐた」問題だった。大義を信じることができない戦争に自らの命をかけることに疑問を持ち、かといって自ら命を絶つわけにもいかない。では、どうしたらよいのか。その答えを模索していた。
