湯川自身は体を壊し召集延期となっていたが、「純情な林は事実ひたむきに敵艦めがけて突つ込んだことだらう」と思いながら街の映画館で特攻隊のニュース映画を観ると、精神はたかぶり、流れる涙を止めることはできなかった。

 湯川が林の戦死を知ったのは、終戦の少し前だった。高校時代の林の友人が湯川のもとを訪れ、教えてくれた。その友人の「虫を殺すのさへ気味わるがつてゐた林が、特攻機で突つ込んだんですからねえ」という言葉に湯川は反発した。

「そのやうなあり来りの感傷主義で林の戦死を片付けられるのはたまらない」と思った。後に湯川は「林は特攻隊員となつてからいよいよ出撃するまでにはかなり死の問題に悩んだらしく、突つ込む直前にやつと自分の気持を整理して敵陣に向つた」と聞き、愕然とした気持ちになる。

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 林が「死の問題」に悩んでいたことは、出撃の3ヵ月前からつけられていた日記『日なり楯なり』からもうかがえる。3月19日の日記には「私は2、3月を出ずして、死ぬ。私は死、これが壮烈なる戦死を喜んでゆく。だが同時に私の後に続く者の存在を疑うて歎かざるを得ない。世にもてはやさるる軍人も、政治家も、何と、薄つぺらな思慮なきものの多きことか。誠の道に適へば道が分るはず。まさに暗愚なる者共が後にのこつてゆくを思へば断腸の思ひがする」と書いている。自分が死んで「暗愚なる者共」が生き残ることの理不尽さを、受け入れがたいものとして悩んでいる。

出撃の準備が整えられていくなかで

 出撃の準備が整えられていくなかで書かれた3月21日の日記には「短き生命にも思ひ出のときは多い。恵まれた、私には浮世との別離はたへがたい。けれど思ひかへすまでもなく私は突込まねばならない。出撃の準備整うてくるにつれて、私は一種圧迫される様な感じがする。耐へがたい。私は私の死をみつめることはとても出来そうにない。この一刻に生きる」と心情を率直に記した。

 しかも不安や恐怖を文章で表現しようとすると、それが余計に増幅されていたのだろう。「文をかいても又文にだまされてしまひそうである」と悩み、「人間はなんでこんな術を覚えたのか、弱い。そして私はその弱さにこのんでしづんでいる。絶望、絶望は罪である」と悲嘆した。

 そして「のこされし時間は少なくとも私は私自身一個の精神となつて死んでいきたい」と吐露した後、「私は」と書いたきりで止まっている。この日、林は「私は」の後に何と書こうとしたのだろうか。再び、死について自分自身に反問したのだろうか。

 林が特攻の命令を受けたのは、この日記から10日後の1945年3月31日だった。

最初から記事を読む 「気持ちは高ぶっていたが、心の中では戦争というものを呪っていた」「あの頃を思い出すのは、もう嫌だ」…生きて帰れないと悟った特攻隊員たちがそろって叫んだ“ある言葉”とは