アブラ虫、みみず、山ヒル……。食べられそうなものは何でも食う

 前の日に魚や酒の話をして、「内地に帰ったら遊びに来いや」と言っていた傷病兵が翌朝には亡くなっている。遺体を埋める気力もなく、本隊を追いかけた。「ひどいところでは、3メートルに1人ずつぐらい餓死状態のところがありました。だから弾に当たって死ぬよりも、餓死のほうが多かったんじゃないですか。栄養失調と餓死、それからマラリア、デング熱です」。

 インタビューでは栄養失調や餓死についての具体的な状況は語っていないが、『日本経済新聞』に連載した「私の履歴書」では詳細に描写している。それによると「食糧はないのに自分はウジ虫に全身を食い尽くされそうだ。腐った肉を自分で切り取り一命は取りとめた」という凄惨な状態で敗走を続けた。「アブラ虫、みみず、山ヒル……。食べられそうなものは何でも食う。靴の革に雨水を含ませ、かみしめたこともあった」という。その状況について中内は、「人間の限界を問う飢餓」と表現した。

写真はイメージ ©︎アフロ

 昼下がりになると、どのみち死ぬのなら、早く死んだ方が楽だという考えになった者が手榴弾で自決をする「ドーン、ドーン」という音が聞こえた。米軍が空から落とすチラシでレイテ島が落ちたこと、東京大空襲をはじめとする空襲で日本の都市の多くが破壊されたことなどは知っていた。降伏すれば治療を受けられ、食糧も豊富にあると書かれてもあった。だが当時の価値観では、捕虜になることはできなかった。中内はどう過ごしていたのか。

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「地獄の釜の蓋が取れたような感じ」

 要するに信じているのは、明日がある、ということだけですね。寝て、目が覚めたら明日があるということだけで、そこから先のことは全然考えません。人間も極限まで行くと、思考は停止してしまいますね。いま今日があって、寝て目が覚めたら明日があって、横で話していた兵隊が冷たくなっておる、ということです。誰が生き延びていくか。生き抜き競争みたいなものですね。(中内・御厨編著『中内㓛』)

 究極の刹那主義のような状態に中内は置かれていた。間もなく終戦となり、武装解除を受けた。中内は「地獄の釜の蓋が取れたような感じ」がして、停止していた思考が動き出した。「ここまで生き延びてきたんだから、なんとか生き延びていこうという意欲だけですね。ここで死んでなるものかという意欲です。ここまで生き延びて、ここから先、死んでたまるかということですね」(同前)。死線を越えた中内の視野には微かに戦後社会が入っていたのかもしれない。

次の記事に続く 「人間はなんでこんな術を覚えたのか」「絶望、絶望は罪である」…出撃10日前の特攻隊員が残した日記に刻まれた“最後の一言”