徴兵延期をするためだけに学校に籍を置いていた者も猶予が廃止され、入営するとなると、「自分が学生であったという身分をもう一度確認しておきたくなるものらしかった」。あるいは、学校へは通うものの勉強してこなかった者が、本を大量に買い込んで読みはじめるということもあったという。
母の期待に応えるために作家になっておきたい
安岡の友人の1人、小堀延二郎はそのいずれでもなく、2ヵ月ばかり後の入営までにどうしても長編を1本書くと原稿用紙を2000枚買いこみ、机の上に置いていた。そして学生服に日の丸の旗をたすき掛けにして机の前に座っていた。小堀家に遊びに行って泊まった翌日は、たとえその行き先が吉原だろうと小堀の母親は行き先を尋ねることなく、カンカンと切り火を切って送り出してくれた。
そんな優しい母の期待に応えるために、小堀は大学を出る前に何とか一本立ちの作家になっておきたいと願っていた。それが急な入営でかなわないとなって、小堀は分厚い原稿用紙の前に座ることになったのだ。安岡はそういう事情を知っていたので、わずか2ヵ月で2000枚もの小説が書けるはずはなく、それが小堀の「自己陶酔や芝居っ気」だと分かっていたが、指摘することはなかった。
1943年12月1日の入営前日の夕方、壮行会が小堀家で催された。小堀が台所へ酒を運びに行った時、茶の間のラジオから軍艦マーチが鳴った。台所で、小堀が母親に「お母アさん、また“戦果”のニュースだよ……」と、呼びかけているのが聞こえた。この頃にはもう、安岡たちも大本営発表の戦果には懐疑的になっていた。にもかかわらず、小堀ははずむような声で母親に話しかけていた。それに母親がどう答えたか。声は聞こえず、ただ「何かを刻む俎(まないた)の音だけが、間遠にものうげに聞えてくるだけだった」。その光景を、安岡は忘れがたく思った。
個々人のなかに、死者が入り込む予感をさせて、その時が来た者から戦地に向かって行った。
