三枝悦男の妻・桂子は「絶体絶命ではない」と自分に言い聞かせ…

 のらくろ岳友会は、東京都世田谷区成城にある広域通信制の科学技術学園高等学校の職員、佐野真史(のちに宮下と改姓)が、同僚の杉本茂、泉康子、それに卒業生の山室悦男(のちに三枝と改姓)らを誘って、1976年10月に結成された。前年の暮、創立10周年をむかえたばかりだった。その間、のらくろを通り過ぎていった男女は37名だった。

 辞めていった会員は、会友として名を連ねてはいたが、正会員は常時12、3名。春、夏、秋、冬と季節ごとにパーティを組んで、北や南アルプスへ出かけていくといった、どこの街にでもある小さな山の会である。しかし会員と山行をともにした者の数は、100名近くにもなっていた。

 のらくろは、めざした山の高さは高くなかったが、その裾野は、一人ひとりの会員の山友達をも巻き込んで広がっていたのである。

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 その山友達からつぎつぎに電話が入ってきた。杉本の妻、純子は、メモをとりながら電話を受け、捜索の現状を伝えた。1月5日から数日間、日常の買物は子どもたちの役目になった。2年前の暮、三枝から岩登りの楽しさを教えてもらった小学5年生の杉本創太は、今できる手伝いはこれだと思い、妹のさやと力を合わせてスーパーの棚から野菜や肉をカゴに入れたという。

 三枝悦男は、同じ会の会員であった三枝桂子(仮名)と結婚して2年が経っていたが、桂子は夫を呼ぶときも、語るときも、会員が呼び慣らわしていた山室の山、山キチの山をとった愛称“ヤマちゃん”で通していた。そのヤマちゃんが帰ってこない。

 桂子は5日の昼前から新聞社の取材に応じた。出かけるとき、「冬山のことだから、あわてないで下りてきて」と送り出していることを考え、予備日オーバー2日は絶体絶命ではないと、自分に言い聞かせながら、1つひとつの電話をつとめて冷静に受け、自然な語り口でさばいた。宮崎の義姉からの問い合わせの電話口で、「桂子さん、いつもそんなに落ちついていらっしゃるの?」と、言われたほどだった。

「3人が下りてこないんだよ」「遭難したと判断せざるを得ない」と電話が…

 郷里熊本に帰っていた私の元に、「3人が下りてこないんだよ。すぐ帰京して!」と、杉本から電話が入ったのは、4日夜9時だった。その日1日の、山とは縁遠い世界からの切り替えがきかず、杉本にむかって、「えっ、どうして下りてこないの?」と、トンチンカンな応対をした直後、

「とにかく、今夜まで3人から連絡がない。遭難したと判断せざるを得ないんだよ。宮下、近澤、片山と僕で、今から現地に入るんだ。すぐ東京に帰ってみんなと連絡をとり、第2次捜索隊を組織してくれよ」という杉本の言葉に、

「はい、わかりました」と返事しながら、やっと事態をのみこんだ。暮の27日新宿駅で見送った3人が帰ってこないのだ。翌朝年老いた母が、出かけようとした私の背中にむかって言った。

「あんたがとり乱してはいけないよ。たとえヤマちゃんたちに、もしものことがあったとしても、山にあこがれ続けたんだから、あんたがその意を継いで処置してあげなさい」