「槍をめざした3人、下山せず」と夕刊でも報じられて…
熊本空港に行ってみると、東京便の空席はなかった。熊本駅にとって返し、博多で新幹線に乗り継いで、私が大雪の東京駅に着いたのは、第1次捜索隊の4人が木村小屋に到着したその日の夜10時であった。キオスクで夕刊を買いこんだ。
三枝の留守宅に近い辻堂駅へ急ぐ車中、その夕刊を開くことがためらわれた。自分は1日前にその知らせを受け、自分たちがニュースソースであるのに、それが活字になって報じられていることを拒否したいという複雑な心境だった。しかし、一面中央に、まぎれもなく、
「槍をめざした3人、下山せず」
と、大活字が躍っていた。
三枝の留守宅には、古くからの会員、吉原史人がすでに来ており、第2次捜索隊の編成が進んでいた。三枝の妻、桂子は、2歳の息子、大介をかたわらに寝かしつけ、つぎの日から息子を母にあずけるために着替えを詰め終えて、食事や生活習慣をメモしていた。
木村小屋に入った先発隊からの電話で、私には「槍山域の捜索を担当する豊科警察署に行き、家族への応対係になってくれ」ということづけがきていた。仮眠のあと、新宿11時発の特急あずさで豊科に行くことをみんなと約して、翌朝の5時、私は吉原史人の車に乗った。
「豊科で、舞いあがりますよ!」という言葉に込められた“意味”
横浜駅への、うそのように空いた幹線道路を飛ばしながら、苦労人の吉原が、きっぱりと言った。
「今日からは、泉さんが、御巣鷹山(おすたかやま)での日航職員の役割を引き受けなければなりませんね。……みんな、きっと、豊科で、舞いあがりますよ!」
“舞いあがる”とは普通うれしいときに使われる言葉だが、「東京にいて遭難を考えるのとはちがい、情報が刻々入ってくる現地豊科に行ったら、誰もが冷静さを失い、地に足がつかなくなる。そして我先に彼らのいそうな山へ入っていこうとしますよ」という意味を込めているように思われた。
“舞いあがる”
つづめられたこの言葉は、妙な言葉だったが、的を射ていた。
吉原のドングリ眼は、そのとき笑っていなかった。別れ際に彼は言った。
「僕は、あるだけの現金を集めて、夜までに豊科に行きます」



