第1回、ヒロインの蝶子が正月休みで空知高等女学校の寄宿舎から実家のある滝川へと帰ってくる。彼女は「音楽学校へ行きたい」という希望を密かに胸に抱いている。往来の雪道を転んだり、前述のソリで派手に滑り出してコケたりと、まず視覚的にヒロインのキャラクターを提示して、視聴者に記憶させる。ここまでは、よくあるパターンだ。
その後、通信簿の通信欄や、女学校の校長が蝶子への訓戒をこめて父・俊道(佐藤慶)に宛てた手紙で、蝶子の人となりをさらに掘り下げて紹介する。「通信簿の通信欄」「校長からの手紙」という舞台装置を活用することで、説明台詞にならない仕かけだ。
加えて、「通信欄」を書いた担任教師の神谷(役所広司)と、手紙を書いた熊田校長(津嘉山正種)の、北山蝶子という人物への評価の違いを通じた「ものの見方の違い」まで提示している。この「違い」が、神谷と校長の教育論のたたかいという、のちの展開の布石にもなっている。
自由主義の神谷と規律を重んじる校長は第5週で蝶子の「写真焼き増し騒動」をめぐって激しい論争になるが、校長を単純なヒールに仕立てず、校長には校長の事情と思いがあると描いた。このドラマは誰も、何事も、一方的に断じない。
「山師」と「山の向こうには何かがあることを教えてくれる人」
同じ事柄を目にしても、それを捉えた側の人の属性や立場、来し方によって受け取り方が変わる。光を当てる方向の違いで、ものの見え方は違ってくる。違うのが当たり前だし、どれも間違いではない。『チョッちゃん』を貫くこうした精神が、第1週からすでに垣間見える。
たとえば、蝶子が足を跳ね上げてソリに乗ったことを、俊道は恥ずかしいことだと言い、母・みさ(由紀さおり)は「足上げて上手く滑れるんかい」と感心する。長男の道郎(石田登星)が帝大医学部受験に失敗したことについて、滝川の地域医療の未来を案ずる俊道は落胆し、みさは「一度失敗したなら次は成功疑いなし」とポジティブに捉える。こうしたシーンの積み重ねから、俊道が明治の家父長制で育った生真面目な男であり、みさは自由でオープンマインド、そして天然キャラであることがわかってくる。
蝶子の叔父・泰輔(川谷拓三/前田吟)は手広く商売をやってみたかと思えば相場で失敗したりと、なかなかに破天荒な男だ。自分とは水と油の関係である彼を苦手に感じている俊道は、泰輔のことを「山師」だと言う。しかし蝶子は泰輔のことを、「山の向こうには何かがあることを教えてくれる人」と言う。
同じ「山」というワードを使って、短所と長所は表裏一体であると描きながら、泰輔の人物像を立体的に浮かび上がらせている。加えて、まったく逆の「泰輔評」を通じて俊道と蝶子のキャラクターと、双方の「未知なるもの」「不確かなもの」に対する捉え方も提示する。こうした、ひとつのシーンがいくつもの意味を持つ脚本に、唸ってしまう。そして第1週で提示された登場人物たちのキャラクター造形は、最終回に至るまでいっさいブレていない。

