本作に登場する全ての人物が、その人らしい、その人ならではの言葉で話す。極力長台詞は抑え、短い台詞のやりとりで「みんなでその場を作り上げていく」というシーンが多い。ひとつひとつの台詞は一見シンプルなのに情緒があり、磨き抜かれて光る玉のようだ。

  よく練られた台詞による会話劇であるうえに、演者の表情やしぐさなど、言葉に頼らない表現も秀逸だ。誰かが話すとき、必ず「何かをしながら」台詞を言っている。食べながら、作業をしながら、馬ソリに乗りながら、雪合戦をしながら。「しゃべり」にフィジカルな動きを加えることで、シーンをのっぺりとさせず、奥行きと「らしさ」を持たせている。

古村比呂さん(2025年) ©︎文藝春秋 撮影・橋本篤

  ひとつのシーンに大勢の登場人物が居合わせる場合、誰かが話すのを全員が棒立ちで聞くようなことを絶対にさせない。全員の気持ちがひとつの方向を向いていない。それぞれの人物の表情や動きが、それぞれの気持ちや思い、暮らし方や生き方を表現している。このドラマは第1回から最終回に至るまで、絶えず人形でない「生きている人間」の姿を描き続けていた。そこには、生活者の実態があり、作り手の人間に対するリスペクトがあった。

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  物語にとって大事なキーワードやアイテムが、第1週ですでに置かれている。まず、俊道の好物であるキャラメル。

  初登場は第1回、蝶子が帰省して実家に戻ると、俊道は往診に出ていて不在である。蝶子は診察室に忍び込んで、引き出しからキャラメルをくすね、口に放り込む。その後、診察に来た小さな子どもたちに俊道がキャラメルをあげるシーンを数回映す。

姿はなくとも父・俊道の存在を感じさせた「キャラメル」

  滝川の名士が集まる会合で俊道がお酌を断るくだりがある。視聴者はまだ、俊道がキャラメルを食べるところを見ていないのに、「下戸で甘いもの好き」という俊道のキャラクターを段階的に理解していく。こうした手法も映画的というか、非常に手練れのテクニックである。

  第128回で俊道が病死したあと、蝶子は第1回と同じように診察室に行き、引き出しにキャラメルを見つけて「父さん、もらうね」と口に入れる。そして最終回では、戦争が終わって墓参りで滝川を訪れた蝶子たち一家が、俊道の墓前にキャラメルを供える。

古村比呂さん(2025年) ©︎文藝春秋 撮影・橋本篤

  第1回から最終回に至るまで、俊道の姿はなくとも、いつも俊道の存在を感じさせたキャラメル。「私はキャラメルが好物でね」「父さんはキャラメルが好きだから」などと、台詞で説明することは一度たりともなかった。エンターテインメントとは説明を聞く場ではなく、観客が何かを「感じとる」場なのだという基本的なことを『チョッちゃん』は思い出させてくれる。