最終回のラストシーンでは、滝川の草原で蝶子が子どもたちと花を摘んでいる。蝶子は、「お母さんは、花のありかを知ってるんだから」と得意顔だ。実はこの「花のありか」というキーワードも、序盤からすでに登場している。
第1週で蝶子が幼馴染の頼介(杉本哲太)に女学校の様子を話しながら、自分が花摘みの名人であることを誇らしげに語り、「花のありかがわかるんだ」と言っている。また第5週の女学校卒業式で紙芝居をしながら思い出のエピソードを語るクラスメイトたちが「蝶子さんは花摘みの名人」「どういう花がどこに咲いているのかということも大変よく知っていて」と明かしている。
最終回まで観た視聴者には、「花」が「幸せ」を意味するのだということがわかる。『チョッちゃん』は、どこに行っても、いかなる苦難に直面しても、花を探す蝶のように、小さな幸せを見つけだすのが上手な蝶子の物語だった。そしてそれが、この朝ドラが示した幸福論でもあった。
本作ではこうした、アイテムを用いた間接表現が随所で使われている。キャラメル、花、ハンカチ、初雪、梅雨の雨、そしてこのドラマの第二のテーマ曲と言っても過言ではない「ユーモレスク」。同じアイテムが何度も登場するが、そのたびに響き方が違っている。物語の積み重ねによりアイテムはただの「物」ではなくなり、その時々の人物の心情を映し、観る者の感情と呼応していく。
第1週と最終回をつないだ「キャラメル」と「花のありか」を、伏線回収などという紋切り型の言葉で言い表すことは到底できない。これらは、『チョッちゃん』という物語に刻まれた、人が生きた証だ。
「『チョッちゃん』を書くために僕がやったことは…」
脚本家の金子成人氏は、師匠である倉本聰氏の教えを守って、ドラマを書くときは必ず人物の履歴書を作るのだという。「キャラメル」も「花のありか」も、最後までブレない人物造形も、こうした「楽をしない」脚本だからこそ実現したのだろう。
金子氏はインタビューで、「基本的に『チョッちゃん』を書くために僕がやったことは、『チョッちゃんが行くわよ』を読んで、モデルである黒柳朝さんとたくさん雑談したこと。これだけなんです」とも語っている。
蝶子のその後の人生に大きく影響した女学校時代の「パン屋事件とロシア人・ユーリーとの出会い」や「写真焼き増し騒動」などは、『チョッちゃんが行くわよ』の中にほんのひとくだりしか書かれていない。蝶子の人生の大事な局面でいつも隣にあった「ユーモレスク」にいたっては、要のモデルである黒柳守綱さんがシベリアで演奏したことが後日談として語られるたった1行のみの記述だ。
朝さんとの会話をイマジネーションの燃料としながら、金子氏はたった数行で記された「史実」について、「あのとき朝さんはどんな気持ちだったのだろう」ということを絶えず想像し続けたのではないだろうか。

