蝶子は感受性と想像力が豊かで、人の心の機微に敏感だ。彼女は恩師・神谷が四十路を過ぎても独身で、食事を疎かにしたために栄養失調で倒れてしまったとき、安乃(貝ますみ)のことを念頭に置きながら結婚を強く勧める。このときの、これから年老いていく神谷が一生独り身だったらどうなるのかという、蝶子による「シミュレーション」が圧倒的だった。

  また、父・俊道が他界し、残された母・みさを連れて東京に連れて帰ろうというときも、大反対する嘉市(レオナルド熊)、たみ(立原ちえみ)、品子(大滝久美)を納得させたのは蝶子の想像力だった。助けてくれる昔なじみやご近所さんはいる。けれど、このまま滝川にいては、結局みさの心はひとりぼっちなのだと、母のこれからの毎日をつぶさに想像して語った。

  こうした蝶子の「想像力」は、そのまま脚本家・金子成人氏の想像力と言える。原案となった書籍に「出来事」として書かれた史実をそのまま羅列するのではなく、「人はこういう出来事に面したとき、どんな気持ちになるだろうか」ということを、想像して、想像して、想像する。そうした先に、『チョッちゃん』という豊かな物語が出来上がったのだろう。

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原案書籍にあったドラマチックなセリフを使わなかった理由

  脚本家、そして演出家が人の気持ちを深く想像するからこそ、蝶子の人生が揺さぶられるような局面でも、シーンとして派手に騒がない。苦難や不幸をイベント的に配置したり、お手軽な感動場面として消費したりしない。蝶子の感情は、蝶子の心の中にある、と線を引いている。

『チョッちゃん』全156回の中で蝶子は、兄・道郎を落馬事故で亡くし、自身の長男・雅紀(相原千興)を敗血症のため9歳で喪い、父・俊道を病気で亡くす。夫・要を戦争で兵隊に取られ、要は終戦から長らく安否がわからない。疎開先の青森で食堂や行商の仕事をしてなんとか家族を養った。あらめて文字に起こしてみると、なかなかのハードモードだ。しかし、どの局面でも蝶子の悲しみを必要以上にドラマチックに描かなかった。

  原案書籍『チョッちゃんが行くわよ』には、朝さんの長男・明兒さんが亡くなる直前、「神様、僕は天国に行きますけれど、どうぞこの家の人たちが、みんな平和で楽しく暮らせるようにしてください」と神に祈ったと書かれている。ドラマチックさを欲する作り手ならば絶対に入れるであろうこの史実を、金子氏は脚本に入れなかった。この匙加減が『チョッちゃん』なのだ。

「NHKドラマ・ガイド『チョッちゃん』」(NHK出版)

  禍福は糾える縄の如し。喜びも悲しみも、生も死も、隣り合わせに折り重なっている。それが人生であると、このドラマは言っているような気がする。

  死後に届いた道郎の手紙を電話で俊道とみさに読んで聞かせ、故郷「滝川」の文字が目に入ったところで声を詰まらせる蝶子。雅紀の死後、おもちゃ箱から飛び出して転がっていく雅紀のボールを、ただじっと見つめていた蝶子。

  俊道が事切れて、みさの泣き声を背中で聞きながら診察室に駆け込んだ蝶子は机の引き出しを開ける。キャラメルの箱を取り出し逆さに振ると、コトリと2粒が落ちる。窓の外には雪虫が舞っている。視聴者の感情が揺さぶられるシーンは、いつも静かだった。