なぜ“歴史のまち”になったのか?

 なのに、黒船が浦賀沖に来たってよ、という教科書レベルの情報だけで一度もこの町を歩いてこなかった。後悔は浦賀の海よりも深し、である。

 まあそれはさておき、これだけエピソードが豊富なのは、やっぱり浦賀が江戸湾・東京湾の入口にあたる町だから。

 

 他にもエピソードには事欠かない。江戸時代には廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねてたいそう賑わったとか。

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 近代以降は造船の町となり、関東大震災では例の旅館・徳田屋が倒壊するなど大きな被害を受けて、200名以上が命を落とした。

 

 さらに終戦時には引揚指定港となって、約56万人が浦賀の地から祖国に戻っている。

 浦賀駅前からドック跡を囲む道の塀には、そうしたこの町を彩ってきた歴史がイラストとともに説明されている。浦賀はやっぱり、近代日本はじまりの地、なのである。

 

 ただし、ペリー様ご一行は浦賀ではなく西隣の入り江の久里浜に上陸している。日米和親条約を巡る交渉も久里浜で行われたらしい。

 その久里浜にも、京急は線路を延ばしている。日本の夜明けと共に、京急線。我らが京急、赤い電車の行き着く先は、近代日本が産声をあげた町なのである。

 

撮影=鼠入昌史

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