一方で、不思議なことがあった。プロ野球チームは一歩足を踏み入れれば、プライドと嫉妬が渦巻く小さな村社会でもある。一年の大半を同じ空間で過ごし、家族より長い時間をともにするコミュニティの中で才能に恵まれた若者がひとり明確な境界線を引き、年長者の酒の誘いを断れば普通は軋轢が生まれるものだ。だが、なぜか大谷は孤立しなかったのだ。
大谷のジョークは年長者にも奔放に発せられる
チームが遠征先へ向かう移動日になると、鍵谷はよく大谷を含め数人の投手たちと札幌市東区の寮から歩いて数分の寿司店へ向かった。午後の飛行機移動の前にランチ会をするためだった。鍵谷は野球がチームスポーツである以上は、同じベンチにいる者同士が何を考え、どんな人間なのかを知っておくべきであり、何より打たれた傷はひとりで抱え込むよりも誰かとコミュニケーションをとることで解消されると考えていた。繁華街から離れた場所で、職人の握り一本という老舗店で昼間に集まるのならば、世間的な注目度の高い大谷にも要らぬ嫌疑はかからないはずだという気遣いもあった。
気心の知れた投手たちが座敷で握りを頬張りながら語り合う。大谷はその輪に加わり、朗らかに笑っていた。年下の選手には近寄りがたい空気を放っている有原航平にも平気な顔で冗談を飛ばしていた。大谷のジョークは年長者にも奔放に発せられるのだが、それでいて誰も傷つけず、場の空気を壊さなかった。少年時代から野球一筋で、プロになってもスタジアムと寮の往復というある意味で閉ざされた生活を送っている若者が、なぜこれほどコミュニケーションの術を身につけているのか。鍵谷はそこにも彼の才能を見ていた。大谷はプロ野球チームという組織の枠からはみ出す圧倒的な個であり、同時にひとつのピースでもあった。大谷とは同じ日にプロデビューした。それから4シーズンをともに過ごしてきたが、いまだ彼の内面には計り知れないものがあった。
スタジアムに歓声が響く。ゲームが始まろうとしていた。ユニホーム姿になったレギュラーの野手たちがグラウンドへ向かう。その中に大谷もいた。トップバッターである彼の右足にはすでに自打球を防ぐためのレガースが装着されていた。鍵谷たちの前を通り過ぎていく際に彼は言った。それはいつも、自分は誰よりも優れた投手なのだと言い聞かせてマウンドに上がる鍵谷でさえ、想像したことのない台詞であった。
「ホームラン、打ってきます」
大谷はそう予告して、ロッカーを出ていったのだ。
(文中敬称略、第1回おわり)
※本連載「No time for doubt」(鈴木忠平)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」で、初回から最終回まで全文お読みいただけます。
