『言葉のトランジット』(グレゴリー・ケズナジャット 著)講談社

 世に優れたエッセイはいくつかの共通点を持っている。大して役に立たないけれど捨てるには惜しい身の回りのことがらを丁寧に拾い上げ、軽妙な筆致でスケッチしてみせることで読者の心をつかむ。小さな礫で大きな波紋を広げることで、書き手のものの見方や人となりに気づくよすがを浮かび上がらせる。

 文学者が書くエッセイであれば、わたくしたちがそれまでに読んできた詩歌や小説のテーマやリズムなどとクロスすることが多く、作品創作の舞台裏を覗く気持ちになれる。

 本書は、3年間に2度、芥川賞候補となったケズナジャット氏の初のエッセイ集である。タイトルからも分かるように、彼は日本語を第二言語として学び、日本で暮らし、その経験を題材に日本語で小説を書き続けている。

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 その日々の中から気にかかり拾い上げたものごとを材料に、つねに「イントランジット」、つまり言語と文化の間を絶えず動き続ける越境的な存在として掘り下げ、ページの上に打ち出している。日本語話者が当たり前に使う言葉の一々が、柔らかく誠実な内省によってほどけてゆくのを感じつつ、同時に読者はハッとする考察に出くわす。

「俺を使わない僕」もそのひとつかもしれない。日本語教材は「堅苦しい尊敬語や謙譲語、丁寧語」だらけで、叩き込まれたままだと丁寧すぎる物言いから抜け出られず、とくに「おれ」がしっくりこない。

 男性の一人称「おれ」は洋服に例えると部屋着みたいなもので、ある程度人を慮る態度を示す「わたし」「ぼく」とは違って「他人のことにお構いなく、言葉と自己の一体化を示唆するものだ」という。

 示唆はするものの、「おれ」に注意深く耳を傾けると、一種の演技性があり、使う人が多分にカジュアルを装ったり、自然体をことさらに主張する際に選び取られていることもあるから、第二言語話者として中々ついていけない、と。

 要は、むき出しの自分を感じさせつつも本質においてその人称を選び使った瞬間自分のことをカチッと「おれ」という枠の中にはめるわけで、一体化とはほど遠い感触だ、というのである。

 かく言うわたくしも、著者と同様、非母語話者として長く日本語に携わってきた一人であり、日本語の深い襞に分け入る彼の洞察には激しく共感する。と同時に、日本語で暮らす中で感じるズレについて、そもそも日本語へのアプローチが周囲(つまり日本人)と違うためだという自覚はあまりない。

 ズレは、母語を使っていても折々に現れるもので、言語はその一部に過ぎない自己の資質に由来するものだからかもしれない。または、だんだん感覚が鈍くなっている可能性も、否めない。

 わたくしは友人同士で「おれ」を使い、駅前までなら部屋着で平気で出かけることもある。近いように見えてズレがあって、その距離すら心地よく思えることを語りかけてくれる一冊に出会えて、嬉しい。

Gregory Khezrnejat/1984年、アメリカ合衆国サウスカロライナ州グリーンビル市生まれ。2007年に外国語指導助手として来日。現在、法政大学准教授。21年「鴨川ランナー」で小説家デビュー。23年「開墾地」、25年「トラジェクトリー」で芥川賞候補に。
 

Robert Campbell/米国ニューヨーク市生まれ。日本文学研究者。著書多数。近著に『よむうつわ』、訳著として『戦争語彙集』など。

言葉のトランジット

グレゴリー・ケズナジャット

講談社

2025年8月21日 発売