『スイッチインタビュー』の初回、EP1で妻夫木聡が『国宝』の映画的完成度、吉沢亮と横浜流星を筆頭とする俳優陣の演技を繰り返し絶賛したように、筆者も『国宝』の美しい完成度を否定するものではない。興行収入が必ずしも内容の良さに比例せず、良い映画がヒットしないことが珍しくないこともよく知っている。

 だがそれでも、これほどまでなのか、と、『国宝』と『宝島』に対する日本の観客の温度差に対する冒頭の問いに心は戻る。『国宝』はあらゆる賞賛と喝采の中でロングランを続け、『宝島』は黙殺と粗さがしのような「批評」の中で興行が打ち切られていく、その残酷なほどの格差が映画の完成度による差だとはどうしても思えないのだ。

『国宝』公式Xより

『涙そうそう』『ちゅらさん』が描かなかった沖縄の歴史

 自ら『宝島』の宣伝アンバサダーに就任し、日本全国のキャラバンに飛び回った妻夫木聡は、この映画の興行的苦戦を予想していたのかもしれない。2006年、彼が同じ沖縄のコザを舞台に長澤まさみと共演した恋愛映画『涙そうそう』は興行収入30億円を打ち立てた。

ADVERTISEMENT

『宝島』の監督である大友啓史は、2001年に日本中に愛された朝ドラ『ちゅらさん』の演出を手掛けている。しかしだからこそ、それらの作品が何を描いていないか、そして描いていないからこそ本土の観客にヒットしたか肌で感じていたのかもしれない。そして『宝島』はまさに、『涙そうそう』や『ちゅらさん』が描かなかった沖縄の歴史に踏み込んだ映画なのだ。

「なんくるないで済むか、なんくるならんど」映画の予告編で、妻夫木聡演じる主人公はコザ暴動の群衆の中を歩きながら怒号する。「なんくるないさ」は言うまでもなく、『宝島』の大友啓史監督が演出した『ちゅらさん』をきっかけに日本の流行語になったウチナーグチ(沖縄語)だ。原作にも「なんくるないさ」に対する問い直しの描写は繰り返しあるのだが、予告編のこのシーンは大友啓史監督が演出した映画独自のものだ。それは『ちゅらさん』で「描かなかった沖縄」に対する4半世紀を経た返答に思えるシーンだった。

 映画の不入りが伝えられ、冷笑的な記事がメディアに躍る中、宣伝アンバサダーとして必死に日本中を回る妻夫木聡の姿を見ると胸が痛んだ。それはまるで窓も扉もない冷たい壁を素手でノックし続ける男を見ているようだった。

『涙そうそう』(DVD、Amazonより)

 妻夫木聡、窪田正孝、永山瑛太、広瀬すず。率直に言って『宝島』の俳優陣は、今の日本映画界の中でも演技力、スター性ともにA代表レベルに近い実力者ぞろいだ。「妻夫木君がやるって決めてたんで、その意志の強さ、覚悟に、じゃあ俺も絶対にやると、どんないい作品が来ても断ってやるわっていう」と永山瑛太が語ったとおり、これだけのキャスティングが実現したのは俳優同士の連帯と信頼、そして妻夫木聡がこの映画にかける情熱が動かした面もあるのだろう。

 しかしだからこそ、「これだけのトップ俳優たちがあそこまで情熱をそそいだ演技を見せても客足が伸びない」という現象は際立つ。奇妙な言い方だが、『宝島』が駄作、失敗作であるならむしろ「こうすればヒットしたはず」という救いがあった。しかし、沖縄の怒りが憑依した悪鬼のように荒れ狂う窪田正孝の名演をはじめ、今の日本映画の環境でほとんど考えうるベストの布陣で大衆に背を向けられるとしたら、いったい「沖縄の物語」はどうすれば人々の心に届くのだろうか。

『宝島』という映画に欠点がひとつもないとは言わない。よく感想で言及されるように、ウチナーグチが聞き取れなかったという声は多い。ほぼ標準語にウチナーグチの抑揚だけをくわえた『涙そうそう』と比較すれば、『宝島』は占領下の沖縄で若者たちが話していた、本物のウチナーグチに近い形で台詞が交わされる。しかしそれは監督が「(当初は)試行錯誤しテロップ入れたりしたけど、何やってるんだ、俺? と思った。分かったフリをして作っちゃいけない、説明する人間になっちゃいけない、という思いで作った」と語る通り、彼らの声に耳を傾け、理解するために注意を向けてほしい、という制作側の意図したものだ。

 そして映画を見ながら思うのは、クライマックスで窪田正孝が口にするあまりにも危険な革命計画、アメリカーとヤマトに対する憎悪の言葉に標準語のテロップをつけないことで、大友監督は「ウチナーの声に耳を傾ける気がある観客だけがこのセリフを聞いてくれ」というメッセージをこめたのではないかということだ。