「ごめんなさい、私はあなたを……」

 驚いて声をかけると、既に息をしていなかった。多分、目を離したのはほんの15分ほどだと思う。その間に、まるで、私に見つからないようにそっと逝ってしまっていた。身体は温かくやわらかく、何も変わっていないのに、いくら声をかけても反応してくれない。

 それが信じられなくて涙も出ない。どれくらい名前を呼び続け、身体をさすっていただろうか。しばらくして、その身体が冷たくなってきたのに気づき、ようやく訪問看護ステーションに電話をして、亡くなったようだと伝えた。

 すぐに、保雄が「少し怖い」と言っていた木林看護師が来てくれた。私が一番頼りにしているスタッフで、前の晩にも、少し寄って様子を見てくれた。もしかすると、そろそろ危ないと事務所で待機してくれていたのだろうか。

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 亡くなったことを確認した後、一緒にエンゼルケア(故人の遺体を清潔にし、見た目を整える処置)をしようと言ってくれて用意を始めた。私は思わぬことにうろたえつつも、何かしようと横にいた。

夫は呼吸を荒げることもなく、静かに亡くなった 画像はイメージ ©graphica/イメージマート

 だが洋服を脱がすと、私にはどうにもできないくらいの大量の汚物が身体から出ていて、結局、全てをお願いすることになってしまった。私は、ただ保雄の手を握り締めていることしかできなかった。

「最期は苦しまれたようですか」と訊ねられたが、「いつもと変わらずに、呼吸が荒くなることもなかった」と言うと、「安心してゆっくり旅立たれたんですね」と私をねぎらってくれた。息を引き取る時に気づかなかったことを嘆いていると、「仲のいいご夫婦にはよくあることなんですよ」と言われ、そこで初めて少しだけ涙が出た。

 本当に保雄はいなくなってしまったのか。この介護はこれで終わりなのか。もっとできたはず、もっとやれることがあったはずなんじゃないか。こみあげてきたのは、自分に対する怒りだった。足りない、全然やり足りない。ごめんなさい、私はあなたを死なせてしまいました。助けてあげられませんでした。

 自分への怒りのため、医師の死亡宣告も、その後、弟に連絡して来てもらったことも、おぼろげにしか覚えていない。彼との日々を終わらせたくない、それだけだった。

 訪問診療のクリニックから医師が来て、死亡診断書をもらったのは3月17日の午前10時頃だったと思う。初めて来た若い医師が書いてくれた。直接死因は「原発不明扁平上皮癌」と書かれていた。エンゼルケアを終えても、木林看護師はずっとそばにいてくれて、どんな洋服を着せてあげましょうか、と尋ねてくれた。今は何を着せてあげてもいいんですよ、と言ってくれたのは、毎日の様子を知っていたからだ。