ある日、夫が原因不明の腹痛に襲われ、原因を特定できないまま衰弱していった末、3ヶ月を経て判明した病名は「原発不明がん」、そして余命はわずか数週間だった――。

 国民病とされる「がん」。その中には、発生率が低い「希少がん」や治療が困難な「難治がん」といったものも存在する。もし家族が罹患した場合、私たちはどう向き合うべきなのか。

 書評家の東えりかさんが、夫・保雄さんが原発不明がんを発症し、亡くなるまでの約160日間を記した『見えない死神 原発不明がん、百六十日の記録』(集英社)から、保雄さんと過ごした自宅での18日間のようすをお届けする。(全4回の2回目/続きを読む

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病院から自宅に移り、緩和ケアが始まった 画像はイメージ ©Paylessimages/イメージマート

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 私の起床は、これまでだいたい6時半ごろだった。だが保雄との生活は「規則正しく」というわけにはいかないだろう。寝られるときに寝ておかなくては、と思うのは、それはそれでプレッシャーになった。

 起きてすぐ、保雄が家じゅうの窓を開けろと言う。寒いんじゃないの? と訊ねると、「換気は頻繁にしてほしい、家の空気が淀んでいるのがイヤだからね」と言う。自分の病人臭が部屋にこもるのを嫌ったのだと理解して、この日から朝と夕方、寒くても雨でも家じゅうの窓を開け放って、数分間は空気を入れ替えた。

 身だしなみは常に気にしていた。毎朝、蒸しタオルを3枚用意するように頼まれた。ベッドを起こし、温かいタオルを顔に当て、丹念に拭いた後、鏡を見て髭をそる。さらにその蒸しタオルを使って首周りや上半身も拭く。髪の毛を梳かし、口がまわるように顎を動かす。歯を磨き、うがいをして膿盆代わりのボウルに吐き出す。

 声がかすれないようにと、大きな声で「おはよう」を言い合い、今日はどんな調子なのか詳しく説明してもらった。テレビで朝のニュースやワイドショーを見て感想を言い、聴いている音楽のライナーノーツを声に出して読んだり、一緒に「あいうえおー」と大声を出してもらったりした。

 とにかく私は保雄と話がしたかった。どんなことでもいいから、会話を続けたかった。「うるさいなあ」と言われても声をかけ続けた。