偉人だらけの中津の歴史

 中津をはじめとする大分県北部の一帯は、古代は宇佐神宮、中世には大内氏や大友氏ら戦国武将によって支配を受ける。秀吉が九州を平定してからは、黒田如水が入って中津城を築城。続く細川氏の時代に城下町の整備が進んだという。

 

 その後は小笠原氏の時代を経て、江戸時代の半ばから譜代の奥平氏が入って幕末まで続いている。

 奥平氏はなかなかの名君も多かったようで、蘭学を奨励して『解体新書』翻訳者の前野良沢なども輩出している。

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 下級藩士出身ながら重用されて身を立てた福澤諭吉先生が出たというのも、開明的な土地柄ゆえなのか。

 近代以降の中津は、製糸業の町になってゆく。旧藩主奥平氏が福澤諭吉の助言を受け入れ、士族の娘を富岡製糸場に派遣。彼女たちの指導によって、本格的に中津での製糸業がスタートしたという。

 

 1897年に大分県内初の鉄道駅として中津駅が開業すると、駅の南にはのちのカネボウ、北にはのちの富士紡の工場ができ、工業都市として発展していった。

 アーケードの商店街やスナック街といった中心市街地も、工場で働く人たちで賑わっていたに違いない。戦後には鉄鋼業も進出し、中津は工業都市として全盛期を迎えたのである。

 

工場跡には何があるのか

 ところが、そうした時代がいつまでも続くほど世の中は甘くない。駅前の紡績工場は閉鎖される。

 先んじて1970年代に閉鎖されたカネボウの工場跡地は市役所や公園などに生まれ変わった。旧市街地に面する北口とは反対の、工場エリアの南口。かつては殺伐とした空気もあったのだろうか。

 

 ただ、工場閉鎖後の再開発によって丸吉百貨店が開店するなど、新たな中津の顔としての姿を整えていった。

 2000年には閉店し、すでにビルも取り壊されて結婚式場になってしまっているが、戦後の一時代を築いた中津駅前のシンボルだった。

 

 北口の富士紡の工場はカネボウよりも長続き。しかし、1985年に火災で焼失してしまい、閉鎖を余儀なくされた。1998年、その跡地にオープンしたのがゆめタウン。駅の近くのショッピングモールである。