「母上様、御寝なさいましたか。夜中お騒がせ申し相済みませぬが、旦那様には未だ御床入りがなく、しかも、ただ今、お庭前にて、ただならぬ物音が致しました」
と言上した。
チエはこれらすべてを、少しの取り乱しも見せず、非の打ちどころなくやってのけたのである。
さて、家中の者が手燭(てしょく)や提灯を手に手に、どっと庭に降りて見ると、男は腹一文字にかき切った上、首筋を斬って雪見燈籠(ゆきみどうろう)に伏せ、女は首をほとんど完全に打ち落とされて、松の根元に倒れているという、血の臭い漂う光景が繰り広げられていた。
身分を異にする男女の結婚は許されない封建の世であった。花婿なる男は、愛していた腰元の首を打ち、自分も腹を切って果てたのである。それは、いかにも哀れな悲劇であったが、武家にあっては、そのような未練の執着は激しく非難されたものであり、それだけに、うら若い身でありながら見事に事に処したチエは、大きな称賛を受けたのであった。
そして結局、チエは14歳の秋に小泉家に迎えられたのである。
花婿が腰元と心中、母は改めて小泉家に嫁した
チエの最初の結婚の時期は、『列士録』で知ることができる。塩見増右衛門、嘉永3年(1850)の条に、「二月十六日娘婚姻相整付而以御使酒井慧太郎御肴一折金三百疋被下之」と記されているからである。
一方、小泉家の戸籍謄本に見る「増右衛門長女」のチエは、「天保八年(一八三七)三月二十一日生」であるから、チエは満13歳になる前に、一度花嫁衣装をまとったわけである。これは、それから1年余り経た、数え15の年に小泉家に嫁したと(セツと小泉八雲の長男である)一雄が書いているのと、年齢の点で一致する。
山川菊栄が『武家の女性』で説明している武家の嫁入り──それは、花嫁が子供であればあるほど理想的であった──の実態を示す一例であろう。婚礼の夜の花婿の心中事件については、その時を知り得るだけであって、関係するセツの原稿はなく、本文は、一方的に一雄の記述に拠った。