セツは、こうした武士階級のありし日の物語を、日々聞きながら育っていったが、当時、彼ら士族の生きる世界は大きく変貌しつつあって、セツの養家を含め、大部分が貧窮化という厳しい現実に直面していたのである。

実母は没落したあとも掃除ひとつできず…

一方、セツの実母のチエは、いつまでも奥方でいて、小泉家が没落した後になっても、容易に箒(ほうき)や雑巾を持とうとしなかった。しかし、さすがに諸芸・学問を仕込まれて育った女性だけあって、三弦(三味線)は玄人(くろうと)はだしであり、また、大の読書家でもあった。彼女は、江戸時代の小説類をたいてい読んでおり、殊に馬琴物は諳(そら)んじている個所も多かったほどである。

しかし、その日の糧を稼ぐには全く無力であったチエは、かつて権勢を誇った親戚筋に救いを求めることもできなかった。彼らも皆、同じような生活苦に喘(あえ)いでいたからである。

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チエの長兄の塩見小兵衛は、中老で終わりこそすれ、父増右衛門の諫死の後にとった忠義で奇特な行為によって、広く藩内で称賛を博した侍であった。というのは、藩主が帰国する時には、家臣が津田の松原で出迎える習わしであったところ、小兵衛は、わざわざ伯耆との国境の安来(やすぎ)まで出向いて、「ようこそ御帰国」と挨拶(あいさつ)したからである。

その小兵衛の塩見家も、今や零落していた。彼の母親、つまりセツがよく知り賢夫人として尊敬した祖母は、彼の娘の嫁ぎ先である、日御碕(ひのみさき)神社の宮司小野尊光(おのたけみつ)の家に身を寄せて、老いの日を送らなければならなくなり、また、家老の鑑と称えられた父親増右衛門の東京赤坂にある墓も、弔(とむら)う人も絶えて雑草に埋もれていく有様であった。

チエの「太い実家」も同様に没落していた

小泉家の有力な親戚であった乙部勘解由家も、零落していた。貸付の焦付きが重なった後、第七十九国立銀行が明治16年(1883)に経営破綻を来たした時、その巻き添えを食って財産を失ったのである。そして、今や、かつて中老まで務めた勘解由は、大橋にござを敷いて家に残る道具類を並べて売り、果てには、士族が最後まで手放すことを嫌った刀剣類まで売り払って、露命を繫ぐありさまであった。