こうしたわけで、セツの実母のチエは、ただ食べるために家に残る品々を次々と売り払った末、極端な貧困に陥ったほかの士族と同じように、人に食(じき)を乞う身となったのである。このような生活の窮迫の中で、セツは、その年の八月の末に松江に着いた外国人教師ラフカディオ・ハーンの噂に、耳を傾ける余裕もなければ、また、11月の末、東京での帝国議会の開催を祝う市中の人々の興奮を、共にするゆとりも持たなかった。

周囲から「美人の物乞い」と言われるように

『文学アルバム小泉八雲』(増補新版・2008)にも掲載されている晩年のチエの写真は、とりわけ印象的であって、紛れもなく往年の美貌が偲ばれ、また動かぬ気品が漂っている。

セツの初孫の種市八重子さんから伺った話によると、セツは晩年、次男(巖)の嫁である翠(みどり)やその長女の八重子さんに、繰り返して実母の奥方姿を語ったというが、それはセツにとって、後述する実母への感情を差し置き、自分が誇りとする名家の生まれの象徴であったであろう。

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この家老の一人娘であったチエが人に食を乞う身に陥っていたことは、『山陰新聞』が「乞食(こじき)と迄(まで)に至りし」と記し、『西田千太郎日記』に、彼女の身に関して「救済」という表現が用いられている事実に徴して、疑う余地がない。筆者の取材中、「ヘルン先生」(ハーンのこと)に嫁す前のセツについて、伝え聞いていることがあると言う松江在住のある高齢の女性は、「美人のおこも(物乞い)さん」という言葉を繰り返すだけであった

セツの母のチエは、家老の娘として育ち、上士の奥方であった。そして、新しい社会への適応が困難な年齢で、性格強固な夫を失ったのである。彼女は、いわば極端な零落に至るすべての条件を満たしていたと言えるであろう。

このようにして、セツは、権勢を誇った多くの親戚を持つ名家に生をうけた身ではあったが、頼れる縁者がいなくなった状況の中で、養父母と養祖父の扶養に加えて、実母の露命を繫ぐ「孝」の荷を、一身に背負うことになった。その結果が、奇しき運命の転変となり、ラフカディオ・ハーンと結ばれることになったのである。