犬たちに追われるキツネを助けた話

チエのもう一つの体験談も、子供の頃のセツの心をとらえた。チエは幾人かの子の母となった後でも、鳥居清長が描く錦絵の美人のような容姿を保ったものだが、セツが生まれる少し前の頃のことである。殿町も京橋近くに移った塩見の実家を訪れての帰り途、女中と若党(わかとう)を一人ずつ供に連れて、折しも雨が上がって朧月夜となった屋敷町を歩いていた。すると突然、背後から走って来てチエの袖の下、裾脇(すそわき)すれすれに走り抜けた動物があった。犬かと思うと同時に、後ろの方で「あっ、狐(きつね)」と若党が叫ぶ。

狐が暗闇の中に消えて行くのを見守っていると、今度はその狐を追って犬が二匹で駆けて来る。その一匹が荒々しく、彼女に突きかからんばかりにして脇を走り抜けようとした。その瞬間に彼女は、「おのれ、無礼な」と言って、折りたたんだ雨傘でその犬の背をたたいた。犬はキャンと鳴いて後ずさりし、結局、二匹とも若党と女中の手で、今来た方へと追い返されたのであった。

それから二三日経た黄昏(たそがれ)どき、未亡人風の切髪(きりかみ)をした品の良い小柄の女が、小泉家の玄関に現れた。その女は小さな袱紗包(ふくさづつみ)を差し出すと、取り次ぎの者に向かってほのかな声で、「先夜は大層お世話になりました。これはほんのお礼のしるし。何とぞ、奥方様へ」と言った。「どちらから」と尋ねると「はい、月照寺のテイ坊と申す者からとお伝え下さい」と答える。そこで、取り次ぎの者は「しばらくお待ちを」と言って奥に入り、チエにこの見知らぬ訪問者のことを報告した。

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「キツネの恩返し」を実母から聞いたセツ

チエが「はて、テイ坊とは一体誰だろう」と訝(いぶか)りながら袱紗包を開くと、二分銀二枚と南天の葉一枚が入っている。不思議に思って玄関に出て見ると、その女の姿は消えていた。後で使いの者を藩主の菩提寺である月照寺へ遣って、テイ坊という者、それに袱紗について尋ねさせたが、寺の者は、そのいずれにも心当たりがないとのこと。それで、結局あれは、犬に追われた狐が、救ってもらった礼に来たのだと分かったのである。